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トワイライトに着くと、先程と同じ店員がにっこりと笑って「お帰りなさいませ。お待ちしておりました」と迎えてくれた。
横を通りすがった女性客が、目を見開いてミケランジェロを見てから、イリナを見た。
気づくと、店内のあちこちからも視線が集まっている。
ただし、人数は一度目のときよりぐっと減っていて、その場に残っていたすべての客も帰り支度をしているようだった。
「お店、閉店時間なのではないですか。補佐……」
「呼び方は、いつまでそれなのかな。名前でいいよ」
(ミケランジェロって呼ぶの? 無理無理、明日どんな顔で職場で会えばいいの)
どんな顔も何も、そもそもミケランジェロは顔を見せないのだが。そのことを思い、イリナが「いつもの眼鏡は……」と控えめに聞くと、ふっと笑われてしまった。
「見せる必要のない相手に、顔を見せたくないだけだ。君の前では、ときどき眼鏡を外していることもあったんだけどね。見事に全然気づかれてなかったみたいだ」
「お近づきのしるしが、わかりにくい……!」
思わず言い返すと、ミケランジェロは声を立てて笑い出した。それから、思い出したように付け加える。
「伯母の店の店員に使いをお願いして、トワイライトに遅れる旨は伝えてあった。君の家にも知らせは行っている。帰りは遅くなるかもしれないが、きちんと送り届けると」
言い終わるのを行儀よく待っていた男性店員は、「本日、この後はお二人の貸し切りでございます」とすかさず言い添えてきた。
イリナは驚いて、ミケランジェロの顔を見上げた。いたずらっぽく笑い返され、戸惑いながら切々と訴える。
「その……、もうお茶の時間ではないと思うんです。これからでしたら、補佐はお食事の方が良かったのではありませんか」
「問題ないよ、イリナ。俺の今日の目的は君とお茶をすることだ。食事になるようなものを追加しても良いと思う。それに、それほど遅い時間だとも思わない今からだと、ゆっくりお茶を飲んでから観劇にも行ける。どうする?」
家に。
帰ります、という言葉をイリナは飲み込んだ。
どういうわけかジーナは消えてしまったが、頭の中にとどまっていたら、絶対に観劇コースを選択したと思う。不承不承、ジーナのせいで、と言い訳をしながらイリナもそうしたかもしれない。だがそれは、フェアじゃない。
(他ならぬ私が、いまそうしたいって思っている。こんな綺麗な服を着ているのに、すぐに帰ってしまうなんてもったいない。補佐が送ってくれると言うのだし、気にし過ぎも良くない。楽しみましょう)
ひとつひとつ自分の心に確認をして、さらにもう一歩踏み出す決心をする。
人生は楽しむものよ、と。
頭の奥で、ジーナが快哉を上げていたような気がした。
「今日はすごく素敵な時間をありがとうございました。お茶をして、まだ時間があるようでしたら、その後もぜひ」
ミケランジェロと向かい合い、イリナは心からそう伝える。ミケランジェロは目を細めてイリナを見つめ返し、ゆっくりと笑みを広げた。
それから、咳払いとともにおどけた仕草で自分のジャケットの前裾をひき、そっと腕を差し出してくる。
迷ったら気後れする、とイリナは思い切ってそこに手をのせた。
二人で連れ立って店内を進み、特別にあつらえられたテーブルへとたどりつく。
そこは周囲にいくつものキャンドルが灯されてライトアップされており、観葉植物の他にも大壺に生けられた大輪の花に囲まれ、テーブルには白いクロスがかけられていた。
卓上には淡い光をこぼすランプと、愛らしい花の生けられた小ぶりのガラスの花瓶。
一方の壁が総ガラス張りで、夜の闇に沈んだ庭の草花が、影となって浮かんで見えた。
「しかし、君はお礼を言うのが少し早い。楽しい時間はこれからだ」
「補佐……、ミケランジェロさん。いつもは図書館に住んでいて、普段は遊んでない方だと思っていたんですけど」
「遊んではいない。だけど、好きな女性を誘う手順は何度も妄想していたから大丈夫」
妄想? とふきだしそうになりながら、イリナは話を続けた。
「それに、お礼くらい、何度でも言わせてください。あとで言うつもりで、いきなり心臓が止まったらどうするんですか?」
「それは難しい問題だ。もし私の目の前で君の心臓が止まってしまったら、『お礼がまだのようだ』と追いかけて聞くのか……? しかしながら、無闇に追いかけた後に『あれは間違いでした!』と言われても。私のような要領の良くない男は、だいたいそういった勘違いで自分だけ間違えて死ぬ」
「間違えて死なないでください。私の問いかけが不適切だった件は謝罪いたします」
見た目が素晴らしい美青年でも、ミケランジェロはミケランジェロ。
相変わらず、本人でしかありえない発言ばかりする。どうやら、世間で有名な悲恋小説になぞらえたたとえをしたようだが、自分で言って自分で悲しくなってきたのか、切ない表情になってしまった。
それを目にして、イリナはこらえきれずに笑ってしまう。
ちょっとした冗談のつもりだったのか、ミケランジェロもまたそっと顔を逸らし、横を向いてふふふ、と笑っていた。
それから、憧れのスリーティアスタンドがテーブルに届けられる。
盛大に盛り付けられた色とりどりの焼き菓子と、添え物とは思えないほど充実したサンドイッチを楽しむ。スコーンには、たっぷりの自家製ジャムとクロテッドクリームを。
尽きない話をしながらお茶を飲んでいたときに、ふとイリナはミケランジェロにジーナのことを話してみようか、と思った。
しかし、結局口にすることはなかった。
ティーカップを持ち上げて、お茶をひとくち。
脳内聖女の代わりに、「伯母さま、素敵な方でしたね」と侯爵夫人のことを話題にした。
お腹が空いていたのか、ローストビーフのサンドイッチを嬉しそうに食べていたミケランジェロは、頷いて同意を示した。
「私が言うのもどうかと思うが、変わった伯母なんだ。優秀な女性だとは思う。人を育てる才覚もあるようで、あの店で修行して、独立した店を持っている後進もたくさんいる」
「素敵ですね。後に続く人を育てるのは大切です」
「店も評判のようだ。なんでも伯母は若い頃、大変慎ましい生活を強いられた時期があったとか。その反動で、可愛いものやおしゃれなものに目が無いと言っていた。美食家でもあって、この『トワイライト』のことはおすすめだとよく聞いていたんだが……、今まで来る機会がなくてね」
「たしかに、何を食べてもすごく美味しいです。フランボワーズのムースも、ピスタチオのマカロンも。サーモンのクロワッサンサンドも美味しかったですし、ビシソワーズもひんやりしていて喉越しが良くて……。オレンジショコラも酸味と甘みと苦味のバランスが」
勢い込んで言いかけて、イリナは口をつぐんだ。
くすっと笑ったミケランジェロは、「聞いているから、続けて」と言ってから、品の良い仕草でお茶を飲む。
その姿に見とれてしまい、そんな自分に気づいて、イリナは(あわわわ!)と内心の焦りのままにジーナの名を胸の中で呼んだ。
(ジーナ。いきなり来て、どこへ行ってしまったの?)
お別れも告げていないのに。
しんみりしないように、イリナはつとめて明るい声で言う。
「私は図書館の仕事を頑張ります。借金を返せるように」
「ああ。それは私に返してもらえればと言うつもりだったんだが、その必要もない」
「借金漬け計画破綻ですか? それはまたどうして……」
どんな横槍が入ったのかと。
イリナが興味津々で尋ねると、ミケランジェロはジャケットのポケットから、ラベンダー色の封書を取り出して、イリナに差し出してきた。
「伯母から君へ。今日のドレス一式と、ここのお茶代はすべて伯母からになるそうだ。手紙の中身を私は見ていないが、初めから伯母が全部買ったものだとか……意味はよくわからない」
「補佐の能力をもってしても、謎だなんて。伯母様は本当に上手な方なんですね」
「年の功だ。同じ年齢になれば私も捨てたものではないと思うのだが、追いつくのはまだまだ先だな。さて、その頃まで君には隣にいてほしいと真剣に考えている。君がこうしてまた私とお茶を飲んでくれると嬉しい。他にも、仕事以外でもたくさんの楽しいことを一緒にして過ごせるように、これから鋭意努力する所存だ」
珍しく長広舌を振るうミケランジェロの声を遠くに聞きながら、イリナは手紙を開けた。
文字を目で追い、読み終わった後も長いことその文面を見つめた。
やがて、喉の奥から熱いものがこみあげてきて、目も熱くなり、涙がこぼれ落ちた。
「イリナ?」
手を差し伸べてきたミケランジェロの手に手を重ねて、ありがとうございます、とかすれた声でなんとか口にした。
* * *
こんにちは、イリナ。
お久しぶり。
私にとってはかなりの久しぶりなのよ。
あれから私も結構、頑張っちゃったわ。
今日のドレスとお茶は、あの日私が買うと決めたものだから、支払いは私が済ませてあります。
良い男は見つかりそう?
まずは今日という日をめいっぱい楽しんでもらえると嬉しい!
若いあなたの人生は、これから先もずっと続くのよ。
あなたの頭の中の友より
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