第一章 秘密の香り

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   2  梅雨が明け、暑さが日に日に強くなってきた夏の初め。  長谷川郁は、前を歩いている幼馴染みの仄香を見付けた。学校へ向かうバスの停留所へ、あと数百メートルの辺りである。  クラスの女子の平均より少し高いめの背。肩口で切り揃えられたセミロングヘア。律儀に規定通りの長さで履いている制服のフレアスカート。そして、学校指定の地味なデザインの学生鞄。  これだけなら、同じ学校に通う他の生徒の可能性もある。  だが、学校の規則通りに地味で律儀な格好をしている中で、一点だけ反抗心を示しているようなのが、鞄と一緒に肩にかけている真紅のショルダーポーチである。  それは、別に校則違反というわけではない。二人の通う紫村井(しむらい)学園高等学校は自由な校風で知られており、あまり厳格に校則を守らせようという教師はいない。さすがにピアスや染髪は禁止されているが、制服を多少着崩したり、学校指定外の鞄を使ったりしても咎められることはない。  だから、仄香の使っているポーチも校則上は問題無いのだが、ポーチ以外が徹底して校則通りであるだけに、逆に目立って見えるのだ。  周囲には同じようにバス停に向かっているサラリーマンやOL、学生の姿が多い。バスの路線となっている道は幹線通りから少し住宅地に入っており、交通量はそれほど多くはない。時折、路線バスと同じく幹線通りに向かう乗用車が通り過ぎていく。  特に待ち合わせているわけではないが、郁は近所に住んでいる仄香とは、いつも同じバスに乗っていた。  少しイタズラっ気が出てきた郁は、足音を忍ばせて幼馴染みの背後に近付いて行った。ちょっと脅かそうという軽い気持ちである。  静かに歩を進め、肩に手を掛けようとしたその瞬間、幼馴染みはいきなり振り返った。 740fe580-da92-40df-b384-7f33725c2df0「おはよ、郁」 「うわおっ! おおおはよう、仄香」  足音はさせていなかった。一瞬、足元に伸びる影かとも思ったが、太陽は二人の進行方向から射しているので、それも無い。と、いうことは……。 「相変わらず犬並みの鼻してるんだね」 「まーね。後ろからあんたの匂いと一緒に、消臭スプレーの香りがしたわ」 「何で? 消臭スプレーが何で匂うの?」 「完全な消臭なんて不可能なのよ。何にでも匂いはあるものよ」 「ボクがどんな匂いをしてるのか、教えてほしいよ」 「あー……」  一瞬、仄香は郁の匂いを説明しようとしたが、すぐに困ったような顔になった。  見た目の色彩や料理の五味、楽器の音程のように明確に説明する言葉は、匂いや香りにはそれほど多くない。『甘い香り』や『腐ったような臭い』みたいに単純な香りであれば説明もできるのであろうが、『郁の匂い』となると説明するのは不可能と言っていい。何しろそれは、この世で郁だけが漂わせている香りだからだ。 「ゴメン、前にも言ったけど、香りを説明する言葉ってホントに少ないのよ」 「わかってるよ。言ってみただけさ」  ──キミの感じる世界がボクらと全然違うってのは、子供の頃から知ってるよ。  思わず口から出そうになった言葉を、郁はかろうじて飲み込んだ。  仄香が祖母の薫子から受け継いだ類い稀な嗅覚は、才能というには余りにも異質である。足が速いとか、絵が巧いとかであれば、褒められこそすれ忌避されることは無いであろう。  だが、香りに過敏な昨今においては、無臭や無香料がもてはやされる傾向にある。  クラスメイトに対して、うかつに「匂う」などと言ってしまっては、相手はどうしても気にしてしまう。仄香は善意で言ったつもりだったのだが、それが原因で小学生の時にイジメの対象になってしまったこともある。  だから郁は、幼馴染みの嗅覚について口にするときは慎重になる。  ──同じ失敗は、二度としない。 「行こう。バスに乗り遅れちゃうよ」  小学校時代、二人の背はほとんど同じであった。中学に上がってから仄香の方が先に背が伸び始め、今では拳一つ分ほども違いがある。一緒にいると、姉と弟に間違われることもしばしばだ。学校の中では、上級生と下級生といった感じである。 「おはよー、仄香! 長谷川君も!」 「おはよ、瑞希(みずき)」 「おはよう、香山(かやま)さん」  二年A組の教室に入ったところで、クラスメイトの香山瑞希が声をかけてきた。  瑞希はハッキリとした性格の、気持ちのいい美人である。染めているわけではないが、淡く茶色がかったロングヘアを揺らしており、先端を軽くウェーブさせている。窓から入る朝日に照らされて、鮮やかな印象を与える少女だ。街を歩いていれば、大抵の男の視線を集めてしまうような、人目を引く容姿をしている。身長は仄香より少し小さいくらいで、やはり郁よりは背が高い。  二人に挟まれるといささか居心地の悪い感じがしてしまうので、郁は早々に自分の机に向かった。  郁が席について鞄から教科書などを出し始めたのを確認した瑞希は、仄香の手を引いて少し離れた。そのまま郁に背を向けるようにして仄香の耳元に顔を近付ける。 「ね、長谷川君とは最近どうなの?」 「どう……って?」 「とぼけないでよ、付き合ってるんでしょ? 二人は普段、どんなコトしてるのか、参考までに聞きたいな」 「アタシより瑞希の方は? この間渡した香水で、先輩と上手くいったんでしょ?」  瑞希が新しい彼氏と付き合い始めたと聞いたのは、つい最近のことである。一学年上の同じテニス部の先輩で、瑞希の方から声を掛けてOKをもらったそうだ。  あまり大っぴらにしているわけではないが、仄香が香水に詳しいことは一部の生徒や教師には知られている。そのせいで、リラックスしたいとか、安眠したいとか、そういった相談を受けることがたまにあるのだが、ほとんどの場合、仄香は市販のフレグランスを勧めている。実際、その場面に合った香りであれば、市販の物でも十分に効果はあるのだ。  だが、ごくまれに疾患レベルで過度の緊張や不眠に悩む者もいる。医者の処方による薬を飲んでいるものの、どうにも効きが弱い。そういった者が、学校の内外を問わず相談に来ることがある。  アロマテラピー。  嗅覚については、まだ分かっていないことも多いため、香りを積極的に使った療法というのはそれほど一般的ではない。香りを迷信に近い使い方をされることもあるので、アロマテラピーという言葉に対する世間一般のイメージは、医療というよりも、おまじないに近い。  だから、仄香のところに相談に来る者は、軽度のものであればまさにおまじないとしての効能を期待しており、重度のものであれば藁にもすがる思いで訪れる。  幼い頃から祖母の調香工房に入り浸っていた仄香は、師匠である薫子の手ほどきを受け、調香の才能を磨いてきた。薫子が死んでからは彼女の工房を受け継ぎ、今では独学で調香を行っている。年頃の少女ということもあり、最近では色恋にからんだ相談を受ける事も多いので、異性を引き付けるのに適した香りを作ることが多い。  人が他者に好意を抱くのは、どのような点についてであろうか。  最初は、やはり視覚によるものであろう。逞しい姿。見目麗しい容姿。人は見た目が九割というのは、一面では真実である。  そして聴覚。相手の事を知るために、会話を欠かすことはできない。鈴の鳴るような声、あるいは鈴を転がすような声とは、声の美しさを形容したものであるが、耳に良い響きというものは確かに存在する。  味覚と触覚については……、付き合う前に使うことはあまり無いだろう。  最後に嗅覚である。実は嗅覚というのは、脳内で他の四感とはかなり異なる処理が行われている。  他の四感は、眼球や耳、舌や皮膚で受けた刺激が神経パルスに変換され、脳幹などを通って大脳の各感覚野に送られる。しかし、嗅覚は脳の嗅覚野だけではなく、大脳辺縁系、視床、視床下部、海馬などにも神経パルスが送られているのである。これらはヒトの情動や記憶を司る部位であり、一言で言えば、その人のメンタルな部分であると言える。懐かしい香りを嗅いで、古い記憶が急激によみがえってくるというのは、誰でも経験したことがあるはずだ。また、美味しそうな料理を前にして、その香りを嗅いだだけで恍惚とした気分になることもある。これは、脳内麻薬であるドーパミンが分泌されているためであるが、その引き金となっているのが『香り』なのである。  また、他の四感が刺激を受けてから脳の感覚野に達するまでには、多くの部位を通り様々な信号変換がなされている。しかし、嗅覚は受容器と脳がほとんど直結と言っていいくらい少ない過程で繋がっているのだ。  つまり、相手の好む香りを身につけていれば、視覚や聴覚を飛び越して直接脳にアピールすることが出来るといえる。  もっとも、相手が好むからといって焼肉の香りなどのフレーバー、すなわち食に繋がる香りを漂わせていては性欲よりも食欲が先に立ってしまうし、何より色気が無いことこの上ない。  さらに面白いことに、『好む香り』イコール『良い香り』とは限らないのである。  世の中には『匂いフェチ』と呼ばれる嗜好がある。異性の、あるいは同性の特定の部位の匂いがたまらなく好き、という人間は少なからず存在する。その嗜好の無い人間にとっては顔をしかめるような地獄の異臭であるのだが、好む人間にとっては天国の芳香となるのだ。  『匂いフェチ』ほど極端な嗜好ではないにしろ、匂いの好みというのは誰でも持っているものである。  仄香は、その『相手が好む香り』を作ることが出来るのだ。
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