第一章 秘密の香り

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   3 「仄香の香水ってホントにスゴいのね。二人っきりで部室にいるとさ、先輩の雰囲気が全然違うのよ。あれをつけてたら、先輩の方から近づいてきてくれたのよ。仄香にはホントに感謝してるわ」 「別に気にしなくて良いわよ。アタシもおばあさまに教わったこと、色々と試すことができたんだし」 「へえ。……ってことは、私は仄香の実験台ってわけなのね?」 「そうよ。アタシは自分の趣味の為にあなたを実験台にしたの。だから気にすることはないわ。それに、瑞希が先輩と上手くいったのは、瑞希自身が魅力的だったからよ。アタシの香水なんてそれを後押ししただけ」  わざと素っ気ないふりをして偽悪趣味的な事を仄香は言ったが、自分の香水のことは別にしても、友人の色恋が上手くいったのは単純に嬉しい。 「で、長谷川君は?」 「むー、食い下がるなあ」 「そりゃあね。仄香のおかげで先輩と付き合うことになったけど、前カレがアレだったから、フツーのカップルってどんななのか気になるのよ。仄香たちならもう、昔っからの付き合いなんだから、言ってみれば大先輩じゃない?」 「えーとね、誤解してると思うからハッキリというけど、アタシと郁は別に付き合ってるわけじゃないわよ」 「…………は? いやいや、それは無いでしょ? 学校に来るのも帰るのも一緒だし、名前で呼び合ってるし。この間も、二人で買い物に行ったりしてたじゃない」 「幼馴染みだからね。姉妹みたいなものよ」 「ええと、姉妹って……。ちなみにどっちがお姉さん?」 「もちろん、アタシでしょ? アタシの方が背が高いし、郁は早生まれだし」  ドヤ顔で弟ではなく妹と言うあたりで、瑞希には、仄香の幼馴染みに対するスタンスが分かったような気がした。  仄香から離れて教室を見回した瑞希は、他の男子生徒と話している郁を見た。こちらを気にしている様子はない。  郁の人畜無害そうな外見は、同じクラスの女子からは小動物などと言われることもある。そして、ほとんどの場合、小動物とは草食系だ。  普段の仄香と郁のやり取りを見てきた瑞希は、なんとも言えない表情でため息をついた。    *** 「いい加減にして!」 「そんなにツンケンするなよ。僕が悪かったって」  昼休み。  今日はどこでお昼にしようかとお弁当を取り出した仄香は、教室の入り口で始まった言い合いに目を向けた。 「瑞希?」  言い合いをしている二人のうち、一人はクラスメイトの瑞希だった。  もう一人は廊下にいるため、声だけで姿は見えない。  だが、その声に聞き覚えのある仄香は、トラブルの予感がして思わず身構えた。 「もう、騙されないわよ。他の娘にも同じことを言ってるんでしょ? あなたとはもうカンケー無いのよ!」  そう言って、瑞希は身を翻して教室に入ろうとした。だが、その動きがガクンと止まってしまう。 「待てよ!」 「離して!」  よそのクラスの教室というものは、職員室と同様になかなか入りにくいものである。  だが、瑞希の腕を掴んだ男子生徒は、教室の中に躊躇う事なく入ってきた。 「あいつ……」  瑞希の手を掴んでいるのは、先日別れたと言っていた瑞希の元カレ、協和潤一であった。背が高く、テニス部に所属している潤一は、整った容貌をしていることから女子生徒の人気が高い。クラスは二年C組で、教室内では中心的なグループのリーダー格に収まっている。  潤一の姿を見た仄香は、真紅のポーチからアトマイザーを取り出し、中の液体を吹き付けてハンカチに染み込ませた。  アトマイザーとは、携帯用の噴霧器のことである。多少の大小はあるものの、だいたい掌に収まるサイズで細長い形状をしていることが多い。香水は普通、小瓶に入っているが、それをいちいち持ち歩くのではかさばってしまうため、携帯に適したアトマイザーが使われる。  香水はずっと同じ香りが持続するわけではなく、時間の経過によって変化する。吹き付けた直後から三十分くらいの香りをトップ・ノート、その後、三~四時間ほど香るミドル・ノート、そして半日ほど残る香りをラスト・ノートと呼ぶ。この中で、香る時間が長く、香水本来の香りが感じられるのがミドル・ノートである。三~四時間に一回使えれば良いのだから、持ち歩くのは携帯用のアトマイザーで十分ということになる。 「ちょっと!」 「ああん?」  潤一が振り向いた瞬間、仄香はハンカチを相手の顔面に投げつけた。 「ぶわっ! 何をするんだ!」 「どう見ても瑞希は本気で嫌がってるわよ。やめてあげて」 「うるさい! お前には関係ないだろ!」 「あるわよ。瑞希はアタシの友達で、そしてとっても困ってる。困ってる友達を助けてあげるのは、当たり前でしょ?」 「これは、僕と瑞希の問題だ!」 「最後の忠告よ。その手を離して。でないと痛い目を見るわよ」 「……ふん。香水オタクのくっさい女に何が出来るんだ?」  仄香の背後から見ていた郁は、幼馴染みの後頭部に、マンガのように血管が浮き出る幻を見た。何かが弾ける音も聞こえたような気がする。  仄香はクラスの女子の中では背が高い方である。しかし、普通の男子生徒に比べるとやはり小柄であり、女の子らしい体格だ。見た目の雰囲気は文化系であり、それはそのまま事実である。  そんな仄香が、体育会系の潤一を痛い目に遭わせると言っても、せいぜいが平手打ちくらいのものであろう。  瑞希の手を掴んだままの潤一のみならず、教室で成り行きを見守っていたクラスメイトたちも、仄香にそんなことが出来るとは誰も思っていなかった。  スカートのポケットに片手を突っ込んだまま、仄香は潤一を数秒間見つめていたが、軽くため息をついてポケットから手を出した。その手には何も握られていない。 「仕方ないわね。忠告はしたんだからね」  仄香はポケットに突っ込んでいた手をあげ、何かを潰すように親指と人差し指の腹を擦り合わせた。そして人差し指を伸ばし、オーケストラの指揮者みたいに空中で文字を描くようにクルクルと回すと、いきなり潤一に向かって指を突きつけた。半歩進んで、指先を無礼な男子生徒の目前に持っていく。 「何だ、それ? 何かのおまじないか。訳わかん……ねえ……、ぐ、があああっ!」  バカにするような目で仄香と彼女の指先を見ていた潤一だったが、その表情が一瞬で激変した。嘲笑から当惑、そして苦悶を経て絶叫に至るまで、一秒もかかっていない。たまらずといった様子で潤一は瑞希から手を離し、絶叫を上げながら口許を押さえた。  その間も、仄香は無表情に指先を潤一に突きつけている。 「きゃあああっ」  緊迫した様子を見守っていた女子生徒の一人が悲鳴を上げた。  口許を押さえていた潤一の手指の間から、真っ赤な液体が溢れだしたのだ。  昼休みの教室で発生した突然の流血沙汰に、クラスは騒然とした雰囲気に包まれた。  落ち着いているのは、騒ぎの張本人である仄香と、幼馴染みの郁のみ。 「お前……、ガバッ……何をした……んだ……?」  鼻血の溢れる口許を押さえたまま、潤一は呻くように仄香を睨む。 「アタシね、実は魔法が使えるの」 「ふざ……けるな……!」 「ホントよ。嫌な男子を追い払うくらいは簡単なの」  教室で二人のやり取りを見守っていたクラスメイトたちの目には、本当に仄香が魔法を使っているように見えただろう。  仄香はただ、潤一に指先を突きつけているだけである。だが、その指先から見えない何かが飛び出し、体格で上回る男子生徒を、文字通り触れること無くはねのけているのだ。 「その指に……、変なモンでも塗ったんだろ! この、香水オタクが!」 「失礼ね。調香師、パフューマーって言ってよ。もっとも、ほとんど我流で自称だけど。でも、この指には何にもつけてないわよ。ほら」  そう言って、仄香は周囲を見渡すと、いつの間にか背後に来ていた郁の顔面に指先を突き出した。 「うおっ! いきなり人を指差すんじゃない!」  だが、さっきの潤一とは違い、指を突きつけられた郁に変化はない。 「何もないでしょ?」 「そうだね」  と、郁は仄香の指にパクリと食いついた。 「……っきゅあっ! ななな何やってんのよ、あんたは?!」  驚いた仄香は、顔を真っ赤にして幼馴染みの口から指先を引き抜いた。  郁は悪びれもせず仄香の肩に手を置くと、彼女にだけ聞こえる声で囁いた。 「証拠隠滅」 「……!」 「って訳で、仄香の呪いは怖いよ? ボクもどれだけ泣かされてきたか」  郁は足元にある仄香のハンカチを拾いながら、意味ありげに笑った。 「人聞きの悪い。あれはお仕置きよ。で、わかった、協和くん? 金輪際、瑞希には近寄らないでくれる?」 「……くそっ!」  溢れる鼻血をティッシュで押さえながら、潤一は教室から出て行こうとした。 「ああ、それと、瑞希にも魔法をかけておくから、今度近づいたら、また血まみれよ」  教室の扉に手をかけ、潤一は凄まじい目付きで仄香を睨んでいたが、結局は何も言わずに教室を出ていった。
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