記憶「小学生」

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「千春ちゃん。」  やっと我に返った時、時計の針は彼が耳を塞いでから四十分も経過していた。 窓の外には赤い夕焼け。カラスが飛び交い、開いた窓から校庭で遊ぶ学童たちの声が聞こえる。 あんなに教室に残っていたクラスメイトたちは誰もいなかった。  ただ一人、彼の目の前に佇んでいる生徒がいた。  しかしその顔は酷く霞んでいた。まるでキャンバスに塗った絵の具を指で執拗に擦りつけたかのように、夢の中の人物のように、その顔には目も口も凹凸も存在しなかった。 髪の長さと来ている服の雰囲気から辛うじて少年だとわかるその人物は、ランドセルへ突っ伏していた千春を見下ろしていた。 「遅いから迎えに来ちゃった。早く帰らないと、河村さんに怒られちゃうよ?」  どこか心配そうな声色で呟く少年に、千春は朦朧としながら返す。 「…先行ってて、後で行くから…。大丈夫、門限は守るから…。」  髪をだらりと垂らし、千春は目を何度も擦った。 どこか力が抜けたような彼に、少年は更に不安そうな仕草を見せた。 机へ身を乗り出すと、彼は千春の髪を掻き上げ、顔をぐっと近づけたのだ。ぼやけたのっぺらぼうがすぐそばにいる。しかし千春は抵抗することもなければ、目の前の彼の顔に疑問を抱くこともなかった。  それは少年のことが思い出せなかったからだ。 彼は現実感のない存在だった。確かに存在はしていたが、覚えているのはその”存在”という大雑把なものだけだった。 彼が千春にとってどんな人物なのか、人生にどんな影響を及ぼした人間なのか、それは何故か思い出すことができなかったのだ。 「…大丈夫?また誰かに嫌なことされたの?」  本来であれば教師が言うであろう質問を、少年は彼に投げかけた。 彼は千春を心配していた。周りの大人や教師が彼をいない者のように扱う中、彼だけは千春を人間として見ていた。 しかしそんな彼の心配に、千春はただ首を横に振るだけであった。 「大丈夫、いつものことだから。」 「駄目だよ、僕から先生に言ってあげるよ。」  その後も何度か少年は千春に対して心配や提案を投げかけたが、いずれも彼の答えはNOだった。 最終的に、千春は椅子から立ち上がりランドセルを背負いながらか細い声でこう呟いた。 「…どうせあと半年で卒業だよ。中学に上がれば皆バラバラになるから。」  それから二度、三度言葉を交わした後、「早く帰ってきてね」と言い残し少年は教室から去って行った。 一人残された教室、窓際のカーテンが風に揺れている。夕日に照らされた机や黒板が、やけに物悲しく見えた。 千春にとって一人の空間はかけがえのないものだった。誰からも罵られず、誰からも見えない空間。全世界の全人類から遠ざけられた場所、そこが彼のいるべき場所なのかもしれない。 時計の針が五時を指したと同時に、千春は新鮮な空気に包まれていた教室を去っていった。
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