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「…抱え込むって、何をだよ。」 「わかりません。でもあなたが何かを悩んでいることだけはわかります。」  秋也の手が千春の背を撫でていた。まるであやすように、落ち着かせるかのように優しい手つきだった。 千春は抵抗することができなかった。あんなに湧き上がっていた後悔が薄まった気がしてならなかったからだ。 しかし同時に思い出すのは秋人のことだった。血眼で探している弟が今、自分を抱擁している。あんなに必死に探している弟が、昔いじめていた人間を愛撫している。  この事実が秋人に知られた時、彼は一体どんな心情で弟に、千春に顔を合わせるのだろうか。 「…ていうかお前、なんで家帰らねぇの?外出てんじゃん、だったら家にも帰れるだろ。」  いつの間にか雲の隙間から顔を出した月が、アパートの廊下に佇む二人を照らしていた。 明るくなった視界に映る秋也の姿を、千春は前髪の隙間から見上げていた。 「あなたを一人にしたくないからです、ハルさん。」  秋也の手が千春の髪を掬い上げる。その奥に隠れていた虚ろな瞳が彼の顔を捉えた。 互いの瞳に互いの顔が映るほど、黒く艶やかな瞳だった。 「…お前、馬鹿じゃねぇの?俺は一人の方が好きなんだよ。」  千春はすぐに目を逸らし、冷たくそう言い放つ。できる限り低く、嫌悪を込めた声で言ったつもりだった。 握られた手に力を込め、全身で秋也に対する敵意を示したつもりだった。しかし結果は変わらない。 それどころか秋也は彼の手を離すどころか引っ張り、彼を自室まで半ば強引に連れ戻し始めたのだ。 「っ…!おい…!何すんだ、離せ…!」  千春は自身の腕を全力で引っ張るが、秋也の力には敵わなかった。 寂れたアパートの廊下にバラついた足音と怒号が響く。ズルズルと床に靴を擦らせながら、千春の体は徐々に自室へと引っ張られていった。 力づくで引っ張られる体は時折よろめくも、秋也はすかさずその体を支え扉の前まで到達した。 「お、前…!ふざけんな!離せって言ってんだろ…!」  大きく体が引っ張られたと同時に、秋也は玄関扉を閉め鍵をかけた。 腕が離れ、千春は勢いよく廊下に倒れる。玄関に佇む秋也はそんな彼を淡々とした様子で見下ろしていた。 「…っ、お前…!急に何しやがる…!」  千春はすかさず立ち上がると、靴を脱ぐことも忘れ後退った。鞄を床に放り投げる時も、決して目の前の秋也からは目を逸さずに。 「嘘だ。あなたは一人になることを何よりも恐れている。」  秋也は玄関を上り、一歩ずつゆっくりと千春に近づいた。 静かな部屋に響く床の軋む音と、彼から漂う言葉にできない恐ろしさに、千春の口元が震え始める。 腕を掴まれた時の力強さと、一向に変わらない彼の強情な態度に、自身が置かれた状況の異質さに悍ましさを感じていた。
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