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芳醇ホワイト
いつの間にか、気がついたら明彦さんのことが好きになっていた。
明彦さんは俺がバイトしているイタリアン・バルの料理長だ。海外で何年も経験を積んだ後、学生時代の仲間と一緒にこの店を開いたらしい。
入社したての頃の俺は明彦さんに嫌われていて、ほとんど口を聞いてもらえない状態だった。
それが半年ほど経った昨年の秋、あることがきっかけで、急激に距離が近くなったんだ。
明彦さんは、俺の恋愛対象が男だってこと知っていたし、俺の明彦さんに対する気持ちにも気づいているみたいだった。
だから、先月のバレンタインデーの日、明彦さんが事務所に一人でいる時に思い切って告白したんだ。
中途半端な状態でいるより、はっきりさせてしまった方がいいような気がしたから。
差し出したチョコレートは受け取ってもらえたけど、残念ながらいい返事はもらえなかった。
期待はしないようにしていたし、拒否されなかっただけマシだとは思うけど、悲しい気持ちになるのは当然なわけで……。
気まずさはあったし、明彦さんには気持ち悪いと思われてるかもしれないけど、それでもバイトを辞めようとは思わなかった。
この店の雰囲気は好きだし、できる事が増えて働くのが楽しくなってきてるし、そして何より明彦さんに会えなくなるのがイヤだったから。
だから俺は、今日も元気に開店前の掃除を、自分で言うのもなんだけど頑張っている。
外の掃除を終わらせて店内に戻ると、カウンター席の向こう側にある厨房から、美味しそうな匂いが漂ってきた。
小麦粉に、卵や砂糖が合わさった甘い匂い。
それに釣られて、厨房の入り口からそっと中を覗くと、明彦さんが一人で作業をしていた。
長めの髪を後ろでひとつにくくり、こちらに背中を向け、ボールに入った何かを練っているようだった。
コックコートではなく、着古したTシャツ姿なのにカッコよくて、俺は自分の気持ちを改めて認識した。
声をかけたかったけど、邪魔したら悪いと思った俺は、音を立てないよう静かにその場を離れ、開店準備の続きに戻った。
30分ほどで店内の掃除を終わらせると、それを待っていたかのように明彦さんが俺を呼び、カウンター席に座るよう言った。
俺が席に着くと、淹れたてのコーヒーと、ピンク色のマカロンをのせた小さな皿が目の前に置かれた。
「それと、これもだ」
そう言って明彦さんが置いたその皿には、貝の形をしたマドレーヌが乗っていた。
「あの、これは一体……」
戸惑っていると、明彦さんがぶっきらぼうに答えた。
「先月の返事だ」
「先月?」
「チョコ、うまかった」
「あ……」
「ありがとうな」
ふわりと柔らかく微笑む明彦さんに、俺はただ首を振ることしかできなかった。
だって、初めて見たんだもん、俺に微笑む明彦さんなんて。
俺に対してはいつも、無表情か仏頂面だったから。
先月の、バレンタインの返事にマカロンとマドレーヌ。
ふたつの菓子が持つ意味を思い出すと、俺は嬉しくて泣きそうになった。
「その菓子の意味、知ってるか?」
カウンターの中から出てきた明彦さんが、俺の隣に座りながら言った。
「うん……、うん、知ってる」
マカロンには「あなたは特別な人」という意味が、貝の形をしたマドレーヌには「あなたともっと仲良くなりたい」という意味がある。
「イタリア料理の店やってるのにフランスの菓子で返事するのはどうかと思ったんだが、その、遅くなってすまない」
「ううん、俺のほうこそ、ありがとう明彦さん」
大好きだよって言おうとしたけど、明彦さんの唇に塞がれて、声に出すことはできなかった。
そっと唇を離した明彦さんが、黄金色をした丸く小さなものをどこからか取り出して口に含んだ。
そして、長い指で俺の顎を上向かせると、形のいい唇がすぐに降りてきた。
舌先で歯列をノックされ、俺がゆっくりとそこを開くと、明彦さんの肉厚な舌が入ってきた。
甘い香りがして、それをもっと感じたくて、俺は明彦さんの首に抱きついた。
カラリと軽い音を立てて、明彦さんの舌と一緒に何かが口の中に入ってきた。
それは蜂蜜と砂糖で作られた、とても甘くて、幸せな味がするキャンディだった。
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