まだ遠いきみの近くで話す

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「自分の知らないことを知っている人が好きだ。これからも、大人ばかり好きになるのかもしれない」  ぽつり、と平坦な口調だった。おれと野矢の間の机に野矢がセリフを置いて、おれはそれを眺めてるみたいだった。野矢はこれを誰かに言いたかったんだと思う。  思ってること、言ってしまおうと思う。いつかは言わなきゃいけない気がしてた、けど三年経って卒業したら忘れるような話のような気もしてた。でも、野矢が頼りなく置いたこの呟きに乗せられる言葉を、おれは持ってる。 「野矢はさ。ここがつまんないのかなって。この学校も、この街も」  この地方進学校で、野矢の成績はずっと学年1位。2位とは大差をつけての、1位。でも、東京で通ってた中高一貫校だったら、もっと切磋琢磨する仲間がいたのかも。  この高校には美術館にデートに行きたい女の子はあんまりいないし、掲示されてる美術館のチラシはいつも陰気臭い常設展ばかり。華やかな展覧会が巡回してきたことなんてない。 「おれは東京のことなんも知らないけど、日本って、東京になんでもあって、地方には何にもない国じゃん。構造がそうなってんじゃん。だから、ままならんよね、って。野矢がそれを態度に出さずにやってきてるの、めっちゃ偉いと思うわ」  びかっ!!と稲光が猛烈に光って反射的に目を閉じた。  野矢が、ほう、と細く息を吐くのが聞こえた。  そのあと、耳がバカになりそうな雷鳴で、全部聞こえなかったし何も見えなかった。 「すごいなあ、今日は」  哀しい目を隠すように細めて、野矢は雷に呆れた声を上げる。 「でもさ」  間に何もなかったみたいに、話を続ける。 「野矢は、よく笑うじゃん。いろんな笑い方するからおもしろーと思う。で、こっからは『おれにはそう見える』って話だけど。野矢は楽しくて笑ってる。別に無理してない。おれには、野矢は楽しそうに見える」  野矢の顔は、うまく形容できない表情を浮かべていた。ひとつわかったのは、おれは回帰不能点を越えたということ。  踏み込んだ。人間関係でここまで踏み込むのは、安全なことじゃない。15年しか生きてなくてもわかること。でも、野矢が目の前に置いて見せてくれた重いものにかける言葉をおれは持っていた。好きな人が悲しい顔をしてるんだから、さぁ……。 「2年頑張れば脱出できるとかの話じゃないじゃん。野矢は今が虚しいんじゃん」 「そうだな」  躊躇のない肯定。うまく説明できないけど、嬉しかった。おれの好きな人は、ちょっとだけ大丈夫になった。 「でも、毎日24時間虚しいわけじゃないように、おれには見える。『おれには』ね」  す、と野矢は顔を背けて、大嵐を眺めた。細く鼻筋の通った、なめらかな白い肌の、軽く伏せた目に野矢だけが持つ魅力が凝縮されて、この美しい横顔をこの距離で見るのは、これが最後かもしれないと思った。目を背けたいのはおれの方だった。でも、見ておきたかった。  荒れ狂う天候を背景に、野矢の心もきっと大きくぐらついている。でも、哀しいほどしずかな横顔だった。 「そうなのだろうと思う。……飲み込むのには、少し時間がかかりそうだ。でも、飲み込めたら、きっと軽くなる」  顔を逸らしたまま、口角を少し上げて、まだ無理してるけど、それでも野矢が心から思ってる言葉を、おれにくれた。  もうこれをもらっただけで十分なのかもしれなかった。すとん。と心に落ちてきて、一番やわらかくあたたかい場所に着地した。もう、これで。
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