4人が本棚に入れています
本棚に追加
序章 スメラギ家の夏の家族旅行がハワイに決定する
「今年の夏の旅行はハワイなんていかがかな!」
とある年の五月。春の慌ただしさと大型連休の忙しなさも過ぎ去った頃。夕食後のほっと一息吐くお茶の時間で意気揚々と提案をしたのはミシェルだった。彼の言葉は大人たち以上に子供たちの胸をときめかせた。誰よりも先に口を開いたのはスメラギ家一元気なヒメだった。「ハワイ行きたい!」と机に両手を付き、身を乗り出した彼女に続きユウマも負けじと「僕も!」と声を上げた。隣の席で無邪気にはしゃぐ同い年の従兄にエミールは呆れた眼差しを向けた。
「たかがハワイで興奮しすぎじゃないか?もう十一歳だっていうのに恥ずかしい奴だな」
「そりゃエミールは何度もフランスに行ってるだろうからそう言えるけど、僕は初めての海外旅行なんだよ!」
「ああ、そうかそうか。初めての」
小馬鹿にしたようにクスクスと笑うエミールにユウマはムッとして更に反論しようとしたが、マリアンヌが「偉そうにしちゃいけないわ」と弟を静かに宥めた。子供たちのそんなやり取りはお構いなしに大人たちは大人たちでリゾート地ハワイに思いを馳せていた。
「僕、ハワイなんて行きたくないよ」
みんなが楽しげに盛り上がっているなか、一人乗り気ではないユヅルがおずおずと自分の意見を言ったことでその場がしんと静まり返った。自分のせいで場の雰囲気を悪くしてしまったことにユヅルは怯えたが、二つ上の兄としての威厳を持ったユウマが優しく「どうして?」と訊ねた。全員の眼差しがユヅルに注がれていた。
「だって僕、英語喋れないし……」
慎重な少年らしい心配事にヒメは盛大なため息を吐くと「弱虫!」と双子の片割れの背中を強く叩いた。
「そんなの平気なの!だってエミールとマリアンヌとマコトお兄ちゃんと、それから…ミシェルとケンタロウ叔父さんも英語喋れるんだよ」
「でも、そのみんなとはぐれたら?」
「はぐれないようにすればいいの」
「でも……」
まだ食い下がろうとするユヅルを遮るようにユウマが両手を叩いて鳴らすと「多数決しようよ!」と申し出た。絶対に勝てない勝負に臆病な少年はガックリと肩を落とした。大人たちは少しばかり可哀想に思ったが、誰もユウマの提案を止めようとはしなかった。初めての海外旅行は緊張するものだが、いざハワイに到着すれば必ずユヅルも楽しめると信じていたのだ。
ユウマは早速多数決に乗り出そうとしたが、二階に繋がる階段の近くからガシャンと大きな音がして阻止されてしまった。皆はすぐにその音がこの場に雄一いない最年少の子供が立てた物音だと察した。次いで「エミール・フランソワ!」と涙声でハーフの少年を呼ぶ幼い(トウタの)声がした。
「エミール・フランソワ!おもちゃが壊れちゃったよ!」
名前を呼ばれたエミールは嫌な顔ひとつせずに急ぎ足で食卓を離れていった。
ところでなぜ彼がトウタにエミール・フランソワと呼ばれているのかというと理由は簡単で、まだ五歳の少年はスメラギという名字のあとに続くものはすべて名前なのだと勘違いしていたのだった。つまりエミールフランソワという名前だと思っているのだ(マリアンヌ・フランソワ、ミシェル・フランソワも同様に)。だが、誰もそんな勘違いをしているなんて知らないため幼い子供の呼び方を訂正する者はいなかった。
「じゃあ仕切り直して多数決だよ。ハワイに行きたい人!」
ユウマが家族のリーダーになったように精一杯の厳かな声色で問いかけると、ユヅル以外の全員が手を上げた。この場にはいないエミールとトウタの為にミシェルとレイナは両手を上げていた。全員の視線が再びユヅルに向けられると、プレッシャーに耐えかねなくなった彼は勢いよく片手を上げた。両手をピンと伸ばしたままミシェルが嬉しそうにはにかんだ。
「ようし、では今年の夏の家族旅行はハワイで決定だ!」
❁ ❁ ❁
時が流れて八月。とうとうハワイに行く日、の前日となった。その日の夜は、とにかくスメラギ家は慌ただしかった。飛行機の時間は夜だが、家を出発するのは昼間。朝にのんびりとしている暇はないせいで誰も彼もが準備に追われていた。「新しい歯ブラシはどこ?」だの「パスポートはちゃんとケースに入れて!」だの「お菓子は機内に持ち込んでいいのか」だの「変圧器を忘れるな」だの、もう様々な言葉が飛び交い、家族たちが家の中をあっちやこっちやと行ったり来たりしていた。呑気にしているのは準備を全て母親に任せているトウタだけだった。お気に入りの猫のぬいぐるみと遊ぶ彼を、今日だけは誰も構ってやることが出来なかった。
ユウマは自分用のキャリーケースに荷物をすべて詰め込み、鍵をかけると一仕事終えたあとのように汗を拭い、寝そべっているケースの上に腰かけた。右腕に付けた腕時計を見下ろしたが、この時間がハワイに行けば何の意味もない時間になってしまうことを気が付いていなかった。誰よりも最初に準備を終えたユウマは誰かの邪魔をすることも気が引けて、家の三階のバルコニーへと足を運んだ。家の中ではユウマが一番好きな場所なのだ。よくコウイチとミシェルがチェアに腰かけてワインを飲みながら語っているのだが、ユウマはここから海を見ていた。いまは真っ黒な海にポツンと灯台の灯りだけが浮かんでいた。夏の夜の涼しい風に吹かれながらユウマは明日からハワイに行く自分を想像してみたが、あまり上手くいかなかった。
「日本の海とハワイの海は違うんだろうなぁ。風も空も違うのかな」
生れた時から港町で育ったユウマにとって海とは特別だった。悩みが出来た時には放課後にふらりと砂浜に遊びに行ったり、昼間の大海原に何度も感動を覚えたりするのだ。海は心を穏やかにさせてくれる存在だった。そして、同時に不思議な体験を引き起こす場所でもあった。ユウマは誰にもその打ち明け話をしたことがなかったのだが、彼は一人で海をぼんやり眺めていると誰かの声を聞くことが出来た。それはいつも同じ声でとても優しい女性の声だった。声の主がいったい誰なのかユウマは何度も想像を巡らせてみたが、海の女神か、海そのものか、それとももっと別の何かなのかは分かることがなかった。声は聞こえるものの彼女は一方的にユウマに語りかけるばかりで会話を出来た試しがなかったのだ。
ハワイには七日間滞在することになっていたが、ユウマは生まれてこのかた七日も家を出ていることなどなかった。一週間、この大好きな景色が見られないのかと思うと寂しくはあったが、ハワイの海がどんな色をしているのか自分の目で確かめたいと強く感じていた。またハワイの海でも彼女の声が聞こえるのかどうかも知りたかった。
「ユウマ、準備終わったのか?」
思考の渦に呑まれながら物思いに耽っていたユウマの背後へといつの間にか忍び寄っていたのはマコトだった。兄に声をかけられてユウマはビックリしながら後ろを振り返り、ほっと胸を撫で下ろした。
「うん、もう準備は終わったよ」
「それでのんびり黄昏てたのか」
実際にはマコトの言う通りなのだが、そうであることを認めるのが恥ずかしかったユウマは「黄昏てなんかないよ」とムキになって返した。思春期特有の小さな反抗にマコトは大人の余裕でからりと笑い返した。
「じゃあ何してたんだ?」
「一週間はこの景色を見られなくなるから、今のうちに目に焼き付けておこうと思って」
「そりゃ昼間にするもんだな」
隣に並んで黒く塗りつぶされた大海原を眺望したマコトの揶揄い
にユウマは「夜の海も好きなんだよ」と適当に返すと、また海へと向き直った。三分間ほど兄弟らしく沈黙を一切気にすることもなしに夜闇の海を眺めていた二人だったが、おもむろにマコトが「ハワイ楽しみだな」と弟に話を振った。
「うん、すごく楽しみ!ハワイの海がどんななのかをちゃんと夏休みの日記に書かなきゃ。唯一嫌なのは海外ってせいで今まで以上にエミールがうざくなるってこと」
「エミールはいい奴だろ」
「エミールが?あんな嫌な奴、世界中探しても、宇宙の果てまで行っても見つかりっこないよ!」
兄の発言はユウマにとっては訳が分からなかった。フランソワ姉弟は周りからいつも羨望と尊敬の眼差しを向けられる完璧な子供たちだった。お淑やかだが愛嬌のある姉に似てエミールもとても人当たりが良かったが、なぜかユウマにだけは当たりが強かった。
「そのうち分かるだろ」と意味ありげな一言を残し、マコトは旅行の支度に戻るべくくるりと踵を返してバルコニーを去った。ユウマは遠ざかっていく背中に「分からないし、分かりたくもないよ!」と声を荒げてからもう一度海に顔を向けたが、どうにも落ち着いて景色を愉しむ気分を先ほどの会話で台無しにされたようで、トウタの遊び相手にでもなってやることに決めて一階へと降りていった。
最初のコメントを投稿しよう!