第一章 ハワイで魔法使いに出会う

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第一章 ハワイで魔法使いに出会う

ハワイ旅行当日。昨晩のうちに旅行の支度は済んでいたはずだったが、出発の直前であれが足りない、これが足りないなど結局のところ迎えのタクシーがやって来る時間までスメラギ家は忙しなかった。夜にバルコニーで黄昏ていたユウマまでもその慌ただしさに参加して、父親からお下がりで貰ったデジタルカメラの充電器がないと喚いていたのだった。 「わざわざデジタルカメラで撮るよりもスマホで撮った方が今時よっぽど綺麗に映ると思うが、君はアナログな人間なんだな」 「カメラでも撮るしスマホでも撮るよ。父さんから貰ったカメラを無駄にしたくないんだ。それに古めかしいのはお前の普段の恰好の方がよっぽどだと思うけど」 忙しい時にわざわざ突っかかってきたエミールにユウマは嫌味ったらしく彼の服装をじろりと眺めまわしながら言った。いつもフォーマルな恰好ばかりしているせいで周りの子供たちとは違っていたが、むしろエミールが特別な子供であることを周囲に一目見て分かるように教えているファッションでもあった。何よりもエミールは自ら好んでフォーマルな恰好ばかりをしていたためユウマの侮辱(ぶじょく)には頬を上気させ「失礼な奴!」と声を荒げると強く肩を突いた。 「ハワイではぐれて泣くようなことにならないといいな。ハワイは日本語が通じるなんて周りが言っているからってあまり気を抜いてると痛い目に遭うぞ。他の国より少しは…ってだけなんだからな。何より中心部から離れた田舎にでも行こうものなら途端に日本語なんてダメだ。日本人の子供は攫われやすいんと聞くし……」 「脅かさないでよ!」 「脅かしてるんじゃない。事実を述べただけだ。せいぜい注意してママの手でも握ってるといいさ」 そうしてスメラギ家は学校のように立派な点呼を取り(つい先日ホームアローンの映画を見たばかりのトウタは頑なにエミールの手を離さなかった)、自宅前で待機している二台のタクシーにそれぞれ乗り込んだ。タクシーの中でもあまりの騒がしさであるスメラギ家にどちらの運転手もげんなりしていた。 空港に到着後、必要な手続きを済ませると全員揃って空港内のレストランで昼食を取った。搭乗時間は夜。時間に余裕を持って空港にやって来ていたスメラギ家はそのあと数時間を空港で過ごすことになったのだが、広々とした空間に様々な施設が立ち並ぶ空港ではしゃいでしまった子供たちは夜のうちに体力がなくなっていたのだった。しかし、飛行機内でぐっすり眠るには丁度いいとユウマは前向きに考えていた。レイナとケンタロウにとってもトウタが眠ってぐずらない方が有難かった。エコノミークラスでの凡そ八時間の移動は現実問題子供よりも大人の方が苦労が絶えず、疲れるものだった。 ❁   ❁   ❁ 飛行機では全員が近くの座席に座るということは出来なかったが、マコトとマリアンヌ以外の子供たちの隣には必ず親が座っているという状態でチケットを交換した。ユウマは名誉なことに窓側の席を勝ち取り、気分は上々だった。隣には父親、通路を挟んだ隣にはエミールとミシェルが座席に腰かけていた。エミールは手持ちのリュックサックから何度も読み返したジュール・ヴェルヌの小説を一冊取り出した。親子で語り合おうとしていたミシェルは息子の行動に酷くショックを受けて小説を奪い取ろと企んだが、童話作家の親として本を子供から取り上げる行いは最も卑劣(ひれつ)であると気が付き、雨に打たれた大型犬のようにしょんぼりとしていた。フランソワ親子の様子になど興味がなかったユウマは窓に貼りついて飛行機が飛び立つのを今か今かと待ち構えていた。飛行機が離陸するためにゆっくりと走り出したタイミングを見計らったかのようにコウイチが「ハワイなんて久しぶりだなあ。楽しみだよ」と呟いた。ユウマは父親の発言に弾かれたよう振り返ると「ハワイに行ったことあるの?」と詰め寄った。そんな話は一度も聞いたことがなかったからだ。 「ああ、そうだよ。もう三十年近く前になるかな。あの時代はね、今より海外旅行が行きやすかったんだ。会社の慰安(いあん)旅行でグアムに連れて行ってもらえる時代だったからね!まぁ、ハワイにはママとの新婚旅行で行ったんだけど。いやぁ、思い出すな。そうそう!あの時ママとヘリに乗ってオアフ島から…」 ユウマは父親の話に反応したことを後悔し、深く息を吐きだした。自分の父親が昔話を始めるとなかなか終着点が見えないことはこれまでに幾度となく経験していた。だが、こうして自分語りをしているときの父親はちっとも周りを見ていないためユウマが相槌を打とうと打たまいと変わらないのだ。そのことまで把握していたユウマはスマホが機内モードになっていることを確認し、イヤフォンを差しこむと音楽アプリを開いて松任谷由実(荒井由実)の『ルージュの伝言』を再生し、離陸して少しずつ眼下に夜景を広がらせていく壮麗な窓の外の景色に目を馳せたのだった。 ❁   ❁   ❁ ハワイに到着してすぐ、入国審査で小さな事件が起こった。日本とフランスの血が流れているマリアンヌはどちらの国の誇りも持ち合わせていた。日本人の礼儀正しさとフランス人の華やかで気品ある佇まい。だが、特にフランスの血を色濃く受け継いでいた彼女はハワイという土地で審査官に向かって「ボンジュール!」と挨拶をしたのだった。どこぞのお嬢様のように様になっているマリアンヌの振る舞いに審査官は最初こそポカンとしていたが、やがて「アロハ」ではなく「ボンジュール」と挨拶されたことに頭を火山の噴火の如く爆発させて怒った。相手の気を悪くさせてしまったことに気が付いたマリアンヌは、それでもアロハの挨拶を口にはしなかったが、英語で丁寧に謝罪を伝えた。しかし、フランソワ家の英語は英国訛りがあったせいで更に審査官をむしゃくしゃとさせることになったのだった。 無事に入国審査を終えたスメラギ家一同は迎えのリムジンに乗り込み、まず最初に宿泊するホテルへと向かった。ワイキキの海を客室から望める高級ホテルだ。リムジンの中のシャンパンを開けて一人で乾杯したミシェルは人生初のハワイに子供に負けじと大はしゃぎしていたが、ケンタロウにみっともないと叱られると大人しくシャンパンを飲むだけに留めた。人生二度目のハワイ旅行に赴いたはずのコウイチは歳のせいで飛行機酔いが激しく、ナイーブになってぐったりと項垂れていた。子供たちはみんな用意されたジュースを飲んだりしながらもほとんどの時間を車窓を流れる風景に虜になることに費やしていた。 「ヒメたち本当にハワイに来たの!信じられないの!ね、ユヅル?」 「ど、どうしよう。英語ばっかりで読めないよ……」 「ハワイなんだから当たり前だよ」 ビクビクと怯えながら町の標識や店の看板、車のナンバープレートに目をぐるぐると回しているユヅルにユウマは弟の緊張を理解出来ずに嘆息吐いた。出発前にエミールに脅かされたとは言え、危険な目に遭うことが想像できない陽気で穏やかな街の雰囲気にユウマは浮かれ気分だった。 「それに外国人ばっかりだよ……」 「僕たちのホテルはワイキキにあるらしいから、その辺りなら日本人も大勢いるぞ」 「そこはハワイだからってツッコミ入れるところだよ」 ユウマの指摘は全員に無視されていたが、ヒメがマリアンヌとマコトに大声で話を振ったことで場の空気が悪くなることはなかった。 「ハワイなのに日本人がいっぱいいるの?」 「ええ、ハワイは日本人が行きたい国のランキングでいつも上位だもの。夏休みシーズンだから多いんじゃないかしら」 「えぇ!日本人が沢山いたらせっかくのハワイの世界観が壊れるの!」 「俺らのことも別の観光客からそう思われてるんだぜ」 「日本人って最低なの!」 「自分で言ったんじゃねえか」 マコトに突きつけられた正論に不快感を表したヒメは頬を膨らませていたが、風に揺れるヤシの木を見てそんなマイナスな気持ちも吹き飛ばされていった。 ホテルに到着したスメラギ一家はチェックインを済ませるべく大人たちは受付へと(たむろ)していた。ロビーからは海を見渡すことが出来るようになっており、テラス付きのカフェも併設されていた。折角ならここでコーヒーでも飲みたいと話をしているマリアンヌとマコトを余所に他の子供たちは広々としたロビーを探索しようとしていたが、ふとヒメがカウンターに腰かけている一人の男に目を留めた。八月のハワイは日本のように猛暑ではないが、今日は三十度を超えていた。ほとんどの人が半袖で過ごしているなかその男は全身を真っ黒なローブで覆っていた。それだけでも子供には異様に映ったのだが、ヒメは彼の目の前のカウンターに置かれたカップに差し込まれたスプーンがひとりでにくるくると回っているのを目撃したのだ。最初はただの錯覚かと思い、手の甲で両目を擦ってじっと目を凝らしてみたが、男の体で見えにくくはなっているものの確かにスプーンが彼の手で動かされるのではなく、自分の意思を持っているように回っていた。「魔法なの!」と咄嗟に叫んだヒメは双子のユヅルの片手を掴むと強引に引っ張って男の方へと歩いていった。ユウマたちもヒメの言葉を聞いてキョトンとしながら二人の向かう先を視線で追い、黒ずくめの男を発見すると訝しげに二人の後に続いた。 「だ、ダメだよ。知らない人に話しかけちゃ……」 ヒメが男に声をかけようとしているのだと理解したユヅルは慌てて足を止め、相方を引き留めようと引っ張ったが、ヒメはもう眼前にまで迫った男の背中に向かって「魔法使ったでしょ!」と一切の躊躇いもなく話しかけた。その時にはコーヒーを混ぜていたスプーンは静かに佇んでいるだけだった。窓の外のビーチを眺めていた男は悠々とした所作で双子を振り返った。全身の漆黒とは対照的に男の肌は幽霊のように青白かったが、瞳は美しい小麦色をしていた。 「魔法?」 「さっきヒメ見たの。スプーンが勝手にくるくる回ってるの」 「ああ、これのことか」 男はさして特別なことをするでもない様子で黒い革製の手袋を嵌めた人差し指を軽く振るうと再びスプーンが勝手に回り始めた。目の前の光景が信じられないユヅルは唖然としていたが、ヒメは自分は間違っていなかったということと不可思議な現象にキャッキャッと騒いでいた。いつの間にか傍にやって来ていたトウタが瞳を煌めかせながら「おじさん、魔法使いなの?」と訊ねた。 「ああ、魔法使いだ」 「そんなことって信じられないよ」 「無理に信じる必要はない」 ユウマの目線はスプーンに釘付けになっていたが、仕掛けがあるマジックではないのかと疑っていた。しかし、魔法使いと名乗った男は疑われていることを不愉快に思う気配はなかった。彼の態度はむしろ男が魔法使いであることを信じさせる材料になっていた。 「貴方が本当に魔法使いなら、それを証明してみてほしい。スプーンが回る程度じゃ、マジックとさほど変わらないと思う」 ユウマと同じく半信半疑であるエミールはやや挑発的ながらも相手に失礼がないような言葉選びで他にも魔法を見せてほしいと申し出たが、男は静かに首を横に振った。 「魔法を見せることはいくらでも出来る。だが、それが魔法使いである証明にはならない」 「どうして?」 「魔法は魔法使いでなくとも使えるものだからだ」 「意味が分からない。それって矛盾している発言だと自分で気が付かないかい?」 「ヒメにも魔法が使えるの!?」 エミールの台詞を遮り、ヒメは身を乗り出して魔法使いに教えを()おうとしたが、彼は少女の意思に応えようとはしなかった。腰を上げると「また会うだろう」と一言残し、指をパチンと鳴らした。するとコーヒーが半分残っていたカップもひとりでに動いていたスプーンも跡形もなく消失してしまった。子供たちはその光景に「あっ」と声を洩らした。普通に考えればいまの現象で彼が魔法使いだと十分に証明されたからだ。そして、子供たちは何もなくなったカウンターにばかり気を取られ、知らぬうちに男が居なくなっていることに気が付くのに遅くなった。五人は顔を見合わせるとハワイに訪れて経験した最初の奇跡を噛み締めた。 ❁   ❁   ❁ ビーチでサンセットを見るために集まったスメラギ一家は各々の時間を楽しんでいた。ユウマはハワイの海が日本の海よりも深く、濃い青色をしていることを今日知った。他にも日本の海では感じられる潮風はハワイにはなかった。こうした違いを実感しながらもユウマはいつも聞こえてくるあの声だけはハワイでも聞こえると信じていた。周りの喧騒や波のさざめく音を遠くに感じ、ゆっくりと瞼を下ろして海の声に耳を傾けた。吹き付ける風が髪を揺らし、頬を擽った。 <私は、ここにいるわ> ユウマは両目を大きく見開き、息をいっぱいに吸い込むと相好を崩した。日本とハワイとではまったく違っていた海だったが、何よりも安心できる声だけは同じだった。大好きな日常の海から切り離されてしまった七日間の中で、ユウマはこの声が聞こえていれば安心できると思った。そして、この声の主がいったい誰なのか、この旅で知れるような微かな予感があった。 「貴方はいったいだれ?」 試しにユウマは声の主に問いかけてみたが、普段通り返事はなかった。優しい声は地平線に沈む夕日と共に消えてなくなってしまった。小さく息を吐きだしたユウマは夜を目指して鮮やかなコントラストを描く空を仰ぎ、これからのハワイの日々に思いを馳せた。
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