第二章 特別な夜景の楽しみ方

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第二章 特別な夜景の楽しみ方

一日の観光が終わり、三ツ星シェフのディナーを味わってホテルに帰って来た夜。客室をこっそりと抜け出したトウタはエミールの宿泊している部屋を訪ねた。教育には厳しいケンタロウが夜に子供が姿を消したとなれば大騒ぎになることは目に見えていたため、エミールは遊びはまた明日にしようとトウタを部屋に送り届けようとしたが、どうやら事情は違っていた。今にも泣きだしてしまいそうな表情でしがみつき、無言で首を横に振った幼い従弟にエミールは落ち着き払った態度で何があったのかを問いただした。 「のらちゃん、いなくなっちゃった」 のらちゃんはトウタのお気に入りの黒猫のぬいぐるみだった。四歳の誕生日プレゼントに両親から贈られ、それ以降どこへ行くにもいつも一緒だった。当然このハワイ旅行にも連れてきており、今日一日もずっと腕に抱えているのをエミールも見ていた。 「どこでいなくなったか覚えてるかい?」 大切な友達が姿を消したことに痛く不安を覚えているのが伝わり、エミールは少しでもトウタの不安を解消できるように片膝を床に付き、目線を合わせながら頭を撫でた。目尻に浮かんでいた涙を拭ったトウタは精一杯記憶を手繰り寄せ「ご飯食べた帰り道まであった」と報告した。トウタの返答を聞いたエミールはにっこりと笑みを浮かべると「見つかる」と自信満々に応えた。ホテルからレストランまでの距離は凡そ一キロ程度。周辺は夜でも人がかなりごった返しているが、どのルートを通って帰って来たかはしっかりと覚えていた。誰かが拾って持っていくようなことがなければ必ず見つかるはずだとエミールは確信していた。 「ほんとうに?」 「僕が嘘を吐いたことがあったかい?でも、探しに行く前にまずはホテルの受付に聞いてみよう。ホテルの中やホテルの前で落としていたら届いているかもしれないから」 玄関で話をしていた二人はフランソワ家が宿泊してる客室に入るとテーブルに置かれたホテル用の電話を取った。バスルームからは陽気なミシェルの鼻歌が聴こえてきていた。調子はずれの歌声に少し元気を取り戻したトウタは口元を両手で押さえてクスクスと笑った。マリアンヌの姿がないことに気が付いたトウタはエミールにそのことについて訊ねようとしたが、受話器越しに巧みな英語でフロントと話をしていたため大人しく待っていることにした。数分の会話のあと受話器を置いたエミールに「のらちゃんいた?」と首を傾げたが、彼は残念そうに頭を横に振った。 「でも大丈夫だ。のらちゃん捜索隊を結成しよう」 「のらちゃんトウタクタイ?」 「捜索隊。ユウマ、ヒメ、ユヅルを招集だ」 「ショウシュウってなに?」 「呼んで集めることさ。さあ、行くぞ」 「でも、パパに怒られるかも」 不安そうにベストの裾を引っ張ったトウタを見下ろしてエミールは宥めるように腰を屈めると両肩に手を置いた。 「でも、のらちゃんは君の親友だろう?なら探しに行かないと。自分のやりたいことをやらなきゃ自分の人生じゃないさ」 自分のやりたいことをやらなきゃ自分の人生じゃない。それはエミールの口癖だった。トウタが何かに挑戦したいと悩み、一歩が踏み出せない時にそっと背中を押す魔法の言葉だ。その一言をエミールの口から聞けばトウタは怖いものなどなくなり、どんなことでも出来ると心の底から信じられた。「うん!」と明朗に頷き返したトウタはエミールの手を強く握った。 「でも、一番の親友はエミールだよ」 大切なことを伝え忘れないように口を開いたトウタの台詞にエミールはとても嬉しく、誇らしい気持ちになった。頼りになる従兄に手を引かれ、トウタはのらちゃんの捜索へと出発した。 呼び出されたユウマたちは事情を聞くと快く承諾したが、ユヅルだけは「子供だけで夜に外に出ちゃいけないよ」と乗り気ではなかった。しかし、ヒメに強引に引っ張られてエレベーターに押し込まれるとビクビクと怯えながらも諦めている様子だった。五人は一階のロビーを抜け、正面玄関から夜のホノルルへと繰り出そうとしていたが、そこでマコトとマリアンヌに出くわしてしまった。二人はホテルに併設されたカフェでお茶を楽しんでいたところで子供たちが正面玄関から出て行こうとする姿を目撃し、慌てて追いかけてきたのだ。 「おいおい、こんな時間にお前たちだけでどこ行くつもりだよ!」 焦りを滲ませた声色で呼び止めたマコトを振り返り、ユウマたちは非常にバツが悪そうな顔で視線を交差させたが、親に見つかるよりはよっぽど運がよかった。親に見つかれば(特にケンタロウは厳しい)こっぴどく叱られた挙句に旅行中にも関わらず罰を与えられるかもしれなかったからだ。 「トウタがのらちゃんを落としちゃったから探しに行くの」 「のらちゃんっていつも持ち歩いてる黒猫のぬいぐるみよね?レストランまでは一緒じゃなかったかしら」 「帰り道で落としたみたいなんだ」 「だからってお前たちだけで探しに行こうとするなよ。ここは日本じゃないんだぞ」 心配がゆえの説教に子供たちは不服そうに黙り込んでいたが、マリアンヌが微かな笑みを零すと「でも、のらちゃんも心配だわ」と呟いた。彼女の一言にマコトは同じく大人の考えが出来ると思っていた高校生に対して「はあ?」と聞き返したが、マリアンヌは不快感を表すことは一切なかった。 「ホノルルの夜に一匹で迷ってしまったなんてのらちゃんが可哀想でしょう?」 「可哀想ってぬいぐるみ……」 「私とマコトも一緒に探しに行くわ。それなら安全ね」 勝手に話を進めるマリアンヌにマコトは反論しようとしたが、期待を込めた全員の眼差しが自分に向いていることに気が付くと盛大なため息を吐き、渋々とのらちゃん捜索隊に加わることを承諾した。どれだけ大人っぽいとは言えどもマリアンヌもまだ高校生の未成年だ。実際に大人なのはマコト一人で彼が唯一の保護者だった。しかし、子供たちを無理やり部屋に戻させるよりも一緒に探しに行った方が手間がかからないのは明白だった。何よりもマコトは皆の兄だ。弟たちに嫌われるような真似はしたくないのが本音だった。 「二手に分かれた方がいいんじゃないかい?」 「ダメだダメ!全員一緒に行動するぞ」 「でも、僕も姉さんも英語を話せるし」 「英語話せるからって夜のハワイを子供だけ歩かせるわけには行かねえんだよ」 子供と言われたことに納得がいかないエミールは瞠目すると「僕が子供だって?」と信じられない光景を目の当たりにしたかのように愕然としていたが「小六は子供だよ」というユウマの指摘に彼を鋭く睨みつけた。 「君は子供だろうけど僕はもうほとんど大人みたいなものだ。少なくとも君よりはよっぽど大人だろうね」 「大人はお前みたいに嫌味ばっかり言わないよ!」 いつもの喧嘩を始めた犬猿の仲の二人をマリアンヌが窘めて、七人は黒猫ののらちゃんを見つけるべくホテルを出発した。 ❁   ❁   ❁ 七人は見落としがないように細心の注意を払いながらレストランまでの道のりを往復した。道路はもちろん立ち並ぶショップの店頭や排水溝の下を確認し、道行く人にぬいぐるみの落とし物を見かけなかったか訊ねた。そうしてホテルへ帰って来たころには夜の十時を過ぎていた。マコトが子供たちはホテルのカフェにいるという嘘をスメラギ家のメッセージグループに送っていたが、そろそろ帰らなければ心配して誰かがカフェに顔を覗かせてもおかしくはなかった。最初は夜の街を歩くことを楽しんでいた子供たちも、のらちゃんが見つからないことにどんどん気分を落としていき、ホテルに帰って来たころにはすっかりと悲嘆に暮れていた。 「のらちゃん見つからなかった」 トウタのポツリと零した一言に言い出しっぺのエミールは胸が締め付けられた。見つかるまでは部屋には帰れないという意地が芽生え、もう一度探しに行くと言い出そうとしていたときに「探し物はこれか?」と背後から声がかかった。全員が弾かれたように後ろを振り向き、その場に立っていた人物に真っ先にヒメが「魔法使いなの!」と相好を崩した。昨日子供たちがロビーで出会った魔法使いの男がまったく同じ身なりで黒猫のぬいぐるみ(のらちゃん)を抱えていた。 「のらちゃんだ!」 エミールの手をパッと離したトウタは大急ぎで魔法使いに駆け寄るとぬいぐるみを受け取り、大事そうに頬を振りつけて抱き寄せた。魔法使いとは初対面のマコトとマリアンヌは対照的な反応を示した。マコトは見知らぬ大人の男に警戒し、訝し気に彼らのやり取りを見ていたのに対し、マリアンヌは魔法使いという言葉に好奇心を擽られていた。 「知り合いか?」 「昨日ロビーで少し話したんだよ」 ユウマの返答にマコトは未だに眉を顰めていた。男の風貌が怪しさを余計に醸し出しているのだろうが、魔法使いというのがマリアンヌとは違った意味で引っかかっていた。子供に興味を抱かせるには持って来いの設定だ。危ないペテン師ではないかと勘繰っているマコトを余所に子供たちはまた魔法が見たいと男に一生懸命せがんでいた。ただ一人ユヅルだけはマコトとマリアンヌの傍を離れようとはしなかった。 「おじさんが魔法使いだって僕たちはもう信じてるよ。だって昨日はコーヒーを消しちゃうし、おじさんも急にいなくなるし」 「あれぐらいのことは誰にだって出来る」 「高等なマジックだと言われればそうかもしれないね」 腕を組んで頷くエミールにユウマは呆れを滲ませて「まだ疑ってるの?」と眉間に皺を寄せた。エミールは「いいや」と首を横に振ると「信じてるさ。その方が夢があるからね」と悠然とした態度で応えた。ユウマは彼の振る舞いに腹が立ったが、それ以上に魔法使いに再会できた喜びの方が大きかった。 「もっとすごい魔法を見せてよ」 「ヒメも見たいの!」 「僕ね、あのね、あの、空が飛びたい」 そわそわと興奮を抑えきれずに魔法使いに頼み込む三人と魔法使いの様子が気になってしまいながらも素直になれないエミールの後ろで「や、止めた方がいいよ」とユヅルが忠告したが、誰も聞く耳を持っていなかった。 「魔法使いならもちろん空飛べるよね?」 「ああ、飛べる」 「箒に乗って飛ぶの?」 「箒に乗って飛ぶことも、箒に乗らずに飛ぶことも出来る」 「すごい魔法使いだ!僕たちも飛べる!?」 「人間は誰でも魔法を使うことが出来る。つまりお前たちも飛べるというわけだ」 淡々とした魔法使いの返答に子供たちは夜空の星を瞳に映した。子供の純粋な眼差しに宛てられて、期待に応えないほどの無常な男ではなかった魔法使いは「今夜は特別だ」と囁いた。その片言が何を意味しているか瞬時に理解した子供たちは一斉に飛んで喜びを露わにした。「ついてこい」と踵を返して歩き出した魔法使いにユウマたちは何の躊躇いもなく後に続き「あ、おい!」とマコトが引き留めようとしたが、マリアンヌまでもが鼻歌を唄いながら彼らについていったせいでマコトも怖がるユヅルを連れて仕方なく魔法を見学させてもらうことにした。 ❁   ❁   ❁ 魔法使いに連れられてやって来たのはホテル裏手のビーチだった。時間も夜遅くなってきたこともあり、ビーチには誰も人がおらずユウマたちの話し声と波のさざめきだけが響いていた。魔法使いは子供たちを横一列に並ばせて(ちゃっかりユヅルとマコトも並んでいた)全員を見渡せる位置に立った。 「魔法は想像力から成る。目を閉じて自分が空を飛ぶ姿をイメージしろ」 子供たちは言われたとおりに瞼を下ろし、それぞれが思い思いの空飛ぶ姿を想像した。魔法使いは彼らが人類の夢に思いを馳せているのを確認し、ローブのポケットから小さな小瓶を取り出した。小瓶にはいっぱいの金色の粉が入っていた。まるでティンカーベルの空飛ぶ粉のようだ。瓶の蓋をするコルクを抜くと魔法使いは風に任せて粉を子供たちに勢いよく振りかけた。パラパラと降り注ぐ粉には気が付くことなく子供たちは未だに空飛ぶイメージを頭の中で繰り返していた。 「目を開け。ただし想像することを絶やすな」 魔法使いの指示に従って子供たちは恐る恐る目を開いた。そして、誰よりも最初に砂浜に付いていた足が離れたのは最も想像力豊かなヒメだった。 「ヒメ、飛んでるの!」 彼女がゆっくりとだが空中に浮き始めたのを目にし、子供たちの中には空を飛べるという確信が広がった。その結果次々と子供たちの体は宙に浮かびだした。ユヅルが小さな悲鳴を上げて「こ、怖いよ!」と叫んだが、ヒメが優しく手を掴むと「行こう!」と言って更に上へ上へと昇り始めた。パニックになっているユヅルは「落ちちゃうよ!」と泣きべそをかいていたが、ヒメはまるで元から飛び方を知っていたかのようにすいすいと上空へと向かった。他の子供たちも双子に続いて眼下に海を広がらせた。 「僕たち本当に飛んでるよ!」 微かな浮遊感とそれを掻き消すだけの高揚感と興奮に包まれてユウマは意味を持たない雄叫びを上げた。器用なフランソワ姉弟はもう早くも飛び方のコツを掴んだようで宙を舞う蝶のように優雅に空を泳いでいた。いつの間にか子供たちの中心にやって来ていた魔法使いが「こっちだ」と子供たちを先導すると街の方向へ向けて飛び立った。己の身に起こっていることを信じられないマコトは唖然としていたが、子供たちが両手を広げてうつ伏せの態勢で魔法使いに続いて飛んでいくのを見るとすぐさま我を取り戻し、急いで後を追いかけた。 「見て、何て素敵な夜景なの」 子供たちはまさに言葉通りワイキキの夜景を上から眺めていた。夜になっても活気を忘れない町が煌びやかな光を放ち、夜闇を彩っていた。クリスマスのイルミネーションが町全体を包み込んでいるようだとユウマは感動した。一つ一つの光とその中を歩く人や道路を走る車。小さな光が結集し、大きな光を生み出すさまは幻想的でありながら人間社会の力強さを子供たちの胸に刻み付けた。 「こんな特別な夜景の見方ってほかにないよ」 ユウマはくるくると回りながらハワイの風を全身に感じ、夜空と夜景を交互に楽しみ、無邪気に笑った。平泳ぎのように両手足を動かして必死にもっと上空へ行こうとするトウタの手をエミールが引いてやり、雲を目指した。エミールは魔法使いの魔法を少しでも疑っていたことを恥じたが、空を飛んでいるという事実と地上に広がる煌びやかな宝石よりも価値のある輝きが少年の心を慰めた。あんなに怯えていたユヅルも気が付けばヒメと一緒に楽しげに空を駆けていた。誰もが一度は夢見る空飛ぶ魔法。ユウマたちは、ハワイという不思議な土地で魔法を身をもって体験した。そして、空を飛ぶことの素晴らしさに魅了されたのだ。 「想像力で人は空を飛べるんだ」 静かに独り言ちたユウマの隣には魔法使いが佇み、人間の営みが織りなす景色を眺望していた。その双眸は人々を愛し、慈しむ神によく似ていた。
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