第三章 スバラシキ海の世界を冒険する

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第三章 スバラシキ海の世界を冒険する

ハワイ三日目の予定は大人も子供も待ちに待ったスキューバダイビングだった。ウミガメに出会えるスポットへと案内されるということで子供たちは大はしゃぎだったが、フランソワ姉弟は出発からずっと浮かない顔をしていた。港で服を着替えるとインストラクターに従って船に乗り込み、目的の場所へと海上を走った。ユウマは三百六十度見渡しても青い塗料を注ぎ込んだような海しか見えないことに感嘆の声を洩らした。海という世界に誰よりも魅了されているのは港町で生まれ育った小学六年生の少年なのだ。 ユウマは船のエンジン音や家族の話し声を一切遮断し、海の声に耳を傾けた。揺れる海面は太陽の陽を反射し、空を映す巨大な鏡となっていた。海の声は静かに、しかし雄大な大海原を思わせる力強さで歌声を披露していた。ユウマはいつもの声が聞こえることに安心して顔を綻ばせた。 スメラギ家は総勢十二人のおお所帯だ。スキューバダイビングのツアーは彼らだけで定員オーバーになっており、船にはスメラギ家しか乗っていなかった。目的の場所で船は徐々にスピードを落としていき、ゆっくりと海の上で停止すると穏やかな波に揺られていた。 「僕は行かない」 スキューバダイビングの説明を受け、実践に移ろうとインストラクターが切り出したところでエミールが断固とした意志を見せるように強い口調で言葉を口にした。全員の注目を浴びようともエミールは一切怯まずに「僕はここで待ってるよ」と続けた。マリアンヌとミシェルが目尻を下げると顔を突き合わせた。 「どうして?今日ぐらい行けばいいじゃん。せっかくハワイに来たのに」 スメラギ家で海水浴に行くことも夏休みになれば多々あったのだが、これまでもエミールは海を見るばかりでまったく入ろうとはしたことがなかった。エミールのことだから体が汚れるだの、べたつくだの、そんな我儘で断っているのだろうと思っていたユウマは、ハワイのスキューバダイビングですらやりたがらない彼の意固地な態度に呆れ返ってしまっていたが、大人たちはみんな気まずい面持ちで口を真一文字に結んでいた。 「海は見てるのが好きで入るのは嫌いなんだ。それに僕は君と違って大人になればいつでもハワイに来れるぐらい稼いでいるだろうから、いずれやることにするさ」 「はあ?いずれやるなら今やっても同じだよ」 「今日は気分じゃない。ただそれだけのことだ。だいたい僕がどうしようと僕の勝手だろう。君には関係ないはずさ。ウミガメに相手にされない痴態を僕に見られなくてよかったと喜べよ」 「僕は良かれと思って誘ってやってるのに!」 いつにも増して癪に障るような物言いにユウマは声を荒げたが、モモコが「やめなさい」とピシャリとユウマを𠮟りつけた。怒られるのはエミールの方だとばかり思っていたユウマは自分が叱られたことが信じられず呆気に取られていた。 「ユウマ、本人がやりたくないと言ってるんだ。そっとしてあげるのが優しさだぞ」 コウイチまでもがユウマのことを窘め、不思議なことにその空間ではユウマが悪者のように仕立て上げられていた。ユウマはまったく納得がいかず更に反抗を試みようとしたが、マコトが彼の肩に手を置くと「いい加減にしろ」と低い声で制した。兄が本気で怒っているときの雰囲気を察知したユウマは未だに不服だったが、大人しく黙り込んだ。 「エミールが行かないなら私も行かないわ」 「いや、マリアンヌは行っておいで!エミールのことは父さんが見てるから」 姉と父のやり取りにエミールは先ほどまでユウマに見せていた刺々しさは引っ込めて「僕は平気だから父さんも姉さんも行ってきて」と微笑んだ。しかし、二人はどうしてもエミールを一人にはしたくない様子だった。フランソワ家のよそよそしい態度がユウマは不思議でならなかった。ヒメとユヅル、トウタ以外の全員がまるで腫れ物でも扱うときの空気を漂わせていた。 「二人とも行ってこい。エミールは俺が見てる」 リゾート地の浮かれ気分にも惑わされず堅い声音でそう言ったのはケンタロウだった。元々ケンタロウは泳げないためスキューバダイビングには参加しないと話をしていたのだ。そのことを思い出したミシェルとマリアンヌは彼の厚意に甘えることにした。 「ね、ね!それじゃあ早く行こ!」 その場の雰囲気を変えるようにヒメが明るくみんなを促すと、ユウマたちも賛同し、マスクやフィンを装着して船から海へと飛び降りた。 ❁   ❁   ❁ ユウマは船の出来事で不機嫌になっていたが、実際にスキューバダイビングを始めるとそんな気持ちも一瞬にして吹き飛んでしまった。海の世界はいつも彼の心を穏やかにしてくれるのだ。視界いっぱいに広がったコバルトブルーの海には赤や黄色、オレンジなどの色とりどりな魚たちが群れをなして泳いでいる。美しいサンゴ礁はまるで海中の植物(ユウマはきのこに似ていると思った)だった。白い砂にグローブを嵌めた指先を滑らせて遊んでいると魚たちが大慌てで逃げていき、海中で不可思議な模様を作り出した。海上から降り注ぐ光がスポットライトのように輝き、ユウマは昨晩ホノルルの上空を飛んで回った感覚を思い出して海の中で軽やかに踊ろうとしたが、酸素ボンベが重いせいで思うように動くことは出来なかった。 ふと声は聞こえずともヒメが大きな身振り手振りで何かを訴えていることに気が付き、ユウマはマスクの下で眉を顰めた。ヒメが近くに居たユヅルの腕を引っ張るとぐんぐんと泳ぎ始めた。またヒメの勝手にユヅルが振り回されているようだったが、あまり遠くには行かないようにとインストラクターから注意を受けていたことを思い出した。だが、もしかしたらウミガメでも見つけたのかもしれないとユウマはひらめくと大急ぎでヒメたちのあとを追いかけた。三人が家族から少しずつ離れた位置へ移動していっていることに誰よりも早く気が付いたのはマコトとマリアンヌだった。マコトが指で三人を指すとマリアンヌは大きく頷き返し、ユウマたちを引き返させるべく泳ぎ始めた。大人たちとトウタは海中の景色に夢中になって誰一人として子供たちが指定された場所から外れていることを見ていなかった。 ヒメとユヅルに追いつくことが出来たユウマは手に持っていた水中ノートに『何してるの?』と書き込んだ。ヒメはこの辺りでも一際巨大なサンゴ礁を指さした。サンゴ礁の真ん中が薄紫色にぼんやりと光り輝いていた。ヒメはこの光に吸い寄せられるようにしてやって来たのだった。ユウマも何故かその光に触れてみたいという強い衝動に駆られたが、彼よりも先にヒメが手を伸ばした。ユヅルが妹を止めようと腕を掴んだが寸秒の差で間に合わず、ヒメの指先が淡い紫の光に触れた。その途端辺り一面を激しい光が包み込んだ。ユウマたちの傍までやって来ていたマコトとマリアンヌも同じく強烈な光の波に襲われ、視界を真っ白に染め上げられると五人は意識を手放した。 ❁   ❁   ❁ 意識を取り戻したユウマたちは三つのことに衝撃を受けた。まずスキューバダイビング用のスーツを着用し、マスクや酸素ボンベなどの道具を一式持っていたはずの彼らだったが、いつの間にかスーツの下に来ていた水着一枚になっていた。二つ目はボンベを着用していないにも関わらず海の中で呼吸が出来ていた。それどころかどういった原理なのか声を発することまで可能だった。そして最後はユウマたちの眼前に広がっていたのは人魚の暮す人魚王国ということだった。珊瑚で形成されたいくつかの長身の棟が立てられ、中心には一際大きな城が佇んでいた。王国は薄い膜のような何かでドーム状に覆われ、その膜がほんのりと発光して王国全体を照らしていた(つまり太陽の陽は届かない深さ)。全体的に薄暗いイメージを受けるが、ドームの外は暗闇に包まれているせいで夜闇に浮かぶ街灯のような安心感があった。何よりもユウマたちを驚かせたのはその小さな王国を大勢の人魚が泳ぎ回っていたことだった。男女の容姿どちらもが存在し、上半身は人間、下半身は魚といった誰もが思い描くような姿をしていたが、人間部分は魚の鱗で覆われており、耳の後ろからはエラが生えていた。そのため人間と同じ肌色はしておらず、みな下半身と同じ鱗の色を上半身も持っていた。また男も女も髪はイソギンチャクのように太く、丈夫な髪質だった。そんな人魚たちが挨拶を交わしたり、集まって話に華を咲かせていたりと、人間世界で言う小さな村落に似た生活を作りあげていた。 「これって人魚だよね」 ユウマの囁きに現実を受け入れられていなかった他の全員もようやく脳が事態を処理すると、とんでもないことが自分の身に起こったのだとパニックに陥りそうになったが、こんな時でも持ち前の前向きさを失わなかったヒメが「すごい!」と歓喜の声を上げた。想像以上に大きく響き渡った彼女の声に何人かの人魚がユウマたちに顔を向けた。「人間だ!」「人間がいるわ!」「人間よ!」と人魚たちは人魚の王国に陸を支配する人間が居ることに慌てふためき、一斉に大勢の人魚がユウマたちを取り囲んだ。危険を感じたマコトが四人を守ろうと手を広げたが、青い鱗をした女性の人魚が胸に手を当てて感動を露わに口を開いた。 「人間が来てくれるなんて女王様が喜ぶわよ!さあ、みんなお城に案内するわ!」 他の人魚たちもみんな口々に歓迎の言葉を口にしてユウマたちの存在を敵視している気配はなかった。マリアンヌが水着のスカートを丁寧に指で摘まみ上げ、人魚たちにお辞儀をした。 「歓迎していただけるなんて嬉しいわ。私たち人魚に会うのは初めてなの」 「この国にはたまに人間が迷い込んでくるの。でも安心して!パーティーのあとは必ず地上に帰すから。女王様は人間が大好きなの。だから絶対会いたがるし、陸の話を聞きたがるわよ」 人間と人魚という種族の壁を瞬く間にぶち壊し、仲良く会話を交わすマリアンヌと青い鱗の人魚にマコトは茫然としていた。ユヅルは人魚たちに攻撃性がないと分かってもなおその姿形に恐怖心が拭えないようで長男にべったりとくっついていた。「こっちよ!」と泳ぎ出した人魚のあとに続きユウマたちも足を上下に動かして城へと向かった。人魚たちは人間の泳ぐスピードに合わせてゆっくりと進んでくれていたが、尾ひれを一振りするたびに大幅な距離を進めることをヒメが羨ましがり、自分も人魚になってみたいと言い出した。そのことに青い鱗の人魚が「貴方も人魚になれるわよ」と笑顔で応えたことにユウマは少し恐怖を覚えた。 城内は当然ながらほとんどが海で手に入るもので形成されていたが、女王様が人間が好きというのは事実のようであちこちに地上で使われている道具が散見された。陸から流れてきたものや中には沈没船から集めたものもあるのだろう。様々な時代の代物が装飾品として飾られたり、日常使いのために利用されていたりと人間であるユウマたちが見ても面白い光景だった。 城の一番高い部屋へと案内されたユウマたちは珊瑚で造られた玉座に腰かける女王様に対面した。腰まで伸びた白い髪を揺らし、上半身を白いフリルの付いた布(地上のものであるのは明らかだった)で覆っている女王様はユウマたちの姿を見るやいな女神に似た微笑みを浮かべた。人魚の国を統治する女王はそれに相応しい威厳と慈愛を携えた眼差しをしていた。腕や胸元には純正の真珠のアクセサリーが光っていた。つい物怖気づいてしまっているユウマたちとは対照的にマリアンヌは人魚の女王に対しても「ボンジュール!」とにこやかに挨拶をしてお辞儀をした。マリアンヌの堂々とした佇まいは童話に出てくるお姫様のようだった。マリアンヌの失礼な態度にも女王様は気を悪くすることはなく寛容な心で人間を歓迎した。ヒメが色とりどりの魚たちが躍る辺りを見回しながら「パーティーしてくれるの!?」とこれもまた遠慮なく問いかけた。子供の無邪気な姿に女王様は口元に手を当てるとクスクスとお上品に笑った。 「もちろん。人間よ、ようこそ!海の世界へ!」 彼女が舞台の幕開けを促すように声を張り上げて両手を大きく広げると、大勢の体を発光させる魚たちがやって来て薄暗かった部屋の中は途端にパーティー会場らしく華やいだ。大勢の人魚が珊瑚の机を運んできては貝殻に盛られた料理をせっせと並べていく。海中で声が聞こえるのと同様に人魚の世界にも音楽があるらしく、地上では聞くことのできない海の楽器を駆使したメロディが部屋を包み、歌声に自身のある人魚たちが優雅に舞い踊りながら合唱した。子供たちは楽しげなその場の雰囲気と音楽につい気分も盛り上がり、ヒメやマリアンヌは一緒になってダンスを披露したりした。ユウマは机に並べられた料理が肉でも魚でも野菜でもない見たことない何かであることに興味を引かれ、試しに口にしてみようとしたがマコトに止められた。ただ一人ずっと人魚や魚たちという海の世界を受け入れ切れていないユヅルがオロオロとしながら人魚と手を取って踊るヒメを引き離そうとしていた。楽しめていない子供を見つけた女王様は玉座から動かないままユヅルを見下ろした。 「少年、パーティーは楽しめないかしら」 自分に話かけてきたんだと察したユヅルは狼狽え、挙動不審に視線をさ迷わせたが「か、帰りたい」と本心を口にすると女王様は相変わらず微笑みを絶やさずに「パーティーが終われば無事に地上へ送り届けますよ」と応えた。ユヅルの様子にようやく気が付いたヒメが傍へと泳いでくると双子の片割れに腕を絡めた。 「もっと楽しもうよ、ユヅル!ヒメ一度人魚になってみたかったの!さっき人魚のお姉さんがヒメたちも人魚になれるって言ってたよ」 「人魚になることに興味があるのですか?」 「うん!人魚になってもっと早く泳ぎたいし、きらきらな尾ひれが欲しい!」 「ダメだよ!人魚になんかなって人間に戻れなかったらどうするの?」 ヒメの発言にユヅルは取り返しが付かなくなる予感がして「もう帰ろうよ」と言って何度も強く腕を引っ張ったが、人魚になりたいヒメは微動だにしなかった。二人のやり取りにユウマが不審がりながら近づき「どうかした?」と訊ねて女王様を一瞥したが、そのとき言い知れぬ不安に襲われた。彼女の笑顔が先ほどまでは海に差し込む一筋の太陽の陽のような温かさに感じていたはずが、今は恐ろしい凍てつく氷の女王に思えたのだ。 「帰った方がいいかも」 ユウマは誰に言うでもなく独り言ちただけだったが、その一言を聞き逃さなかった女王様は「帰る?」と聞いたこともない言葉を初めて耳にしたように首を傾げた。ヒメも何らかの異変を感じ取り、ユヅルの腕を掴む力を強めた。未だに踊り耽っているマリアンヌの下へ移動していたマコトは人魚の女王様とユウマたちが何やら会話しているのを横目に留めた。「ユウマ!」とマコトが弟の名前を呼んだことでユウマたちは一斉に二人を振り返った。 「兄さん、帰ろう!」 突然のことだったにも関わらず弟と妹の強張った顔を見て長男はやはり危険な場所に足を踏み入れてしまったのだと悟った。ユウマの声は部屋中の人魚の鼓膜を震わせた。音楽は止み、光り輝いていた魚たちが岩陰にさっと隠れてしまった。薄暗闇の中であんなにも愉快に踊っていた人魚たちが瞳孔を見開き、ユウマたちを凝視していた。すべての人魚の視線がユウマたちに注がれていた。 「捕まえろ!」 女王の号令が合図となり、人間を捕らえようと人魚たちが一斉に襲い掛かって来た。マコトは近くに居たマリアンヌの手を掴み「こっちだ!」とユウマたちに叫ぶと一心不乱に泳ぎ始めた。「一人も逃がすな!」という女王の叫喚はユウマたちを震え上がらせた。人魚の方が断然泳ぎは速く、慣れているため捕まるのはもはや時間の問題だった。城を抜け出してとにかく遠くへと行こうとするユウマの耳にあの声が聞こえてきた。 <緑の光の方へ進むのよ> 逃げることで頭がいっぱいになっていたユウマは海の声に僅かな冷静さを取り戻し、泳ぎを止めないまま周囲を見渡した。右にはこちらへ来るときに見た薄紫色の光。左には淡いエメラルドグリーンの光が浮かんでいた。「あの光だ!」とユウマは自分の近くに家族が揃っていることを目視して、大急ぎで緑色の光へと飛び込んだ。背後で怒り狂う人魚の一人が光に向かって銛を投げ入れた。ユウマたちは光に呑み込まれたのと同時に視界が目まぐるしく回転し始めた。彼らは大きな海流に乗って流されていた。海流の外は完全な暗闇が広がり、この外に吐き出されれば二度と地上へは戻れないと確信した。 「手を掴んで、離しちゃいけないわよ。絶対に!」 マリアンヌの指示に従って全員が手を繋ぎ、ただ海流の流れに身を任せることしか出来なかったが、光に投げ込まれた人魚の銛がユウマたちの後からやって来るとくるくると回りながら柄の部分がヒメの片手を強打した。右端を務めていたヒメはあまりの激痛にユヅルの手を離してしまうと一人集団から分断された。「ヒメ!」とユヅルは隣にいたマコトの手を躊躇いなく離し、精一杯にヒメの腕を掴んだが、運悪く別の海流との合流地点へ到達してしまい、ヒメとユヅルはユウマたちと別の海流へと流された。どんどん遠くなっていく双子の姿にユウマたちは繰り返し二人の名前を呼んだが、もはやどうすることも叶わなかった。やがてユウマたちとはぐれたヒメとユヅルは海流の終着点を迎えた。深海に吐き出されることで死を迎えるのだと覚悟した二人は互いに決して最後のときまで離れないよう手を握りしめていたが、闇の中へと身を投げ出した二人を淡いエメラルドグリーンの光が護った。二人は自分たちが無事であることを確かめ合い、深海の迷子となって地上へ帰る方法を探すことになった。 ❁   ❁   ❁ 海の中で家族を見失ってしまうという非常事態にさすがのマリアンヌも焦りで我を忘れていたが、ユウマは先ほどあの声が助けてくれたことをしっかりと覚えていた。海の中では人間はあまりにも無力だ。頼れる存在は彼女しかいかないと、ユウマは固く目を閉じると心の中で何度も彼女に呼びかけ、訴えかけた。妹と弟を無事に助けてほしいということ。そして、自分たちを家族の下に帰してほしいということ。ユウマの祈りは次第に思いが強くなり、最後には声の限り叫んでいた。 「お願い、助けて!」 少年の願いを聞き入れ、呼応するかの如く彼らを海流へと誘った淡い光が三人を包み込んだ。優しかった光も目を貫くほど激しくなると三人は意識を失いそうになったが、周囲の景色が一変したことに何とか意識を繋ぎとめた。海流の周りは確かに暗闇しか存在しない深海だったはずなのだが、ユウマたちが海流から放たれた先は明るい太陽の陽が差し込み、色とりどりの魚や一時間前に探していたウミガメが泳ぎ回り、サンゴ礁が形成されて海中の楽園を築く場所だった。水着姿で海面へと顔を突きだした三人は少し離れた位置に自分たちが乗って来た船が揺れ、大人たちが必死になって姿を消した子供たちを捜索している様が見えた。誰よりも早くユウマたちを発見したのは船上でずっと待機し、彼らが居なくなったと知ってずっと双眼鏡で海上を見回していたエミールだった。 「姉さんたちだ!」 エミールが指さした方向に大人たちは顔を向け、船が彼らの下へと波で押し流してしまわないようにゆっくりと走っていった。海中を探していたミシェルとコウイチ、モモコも慌てて船の後を泳ぎ、子供たちと無事に合流した。 「いったいどこ行ってたの!?どれだけ探したと思ってるのよ!」 モモコは子供たちを抱きしめたい衝動に駆られていたが、それよりも先にいきなりいなくなったことを叱責した。しかし、その隣でミシェルがわんわん泣きながら「本当によかった、本当によかった」とマリアンヌを抱きしめる姿にそれ以上叱る気も失せると黙ってユウマとマコトの背中を撫でたが、子供たちは感動の再開に浸っている暇ではないとよく理解していた。コウイチもまだ我が子二人の姿がないことに眉を顰め、頻りに周囲を見回した。 「ヒメとユヅルはどうしたんだ?」 コウイチの台詞にてっきり双子も一緒に居るものだと思い込んでいたモモコはその場にはユウマ、マコト、マリアンヌの三人しかいないことに息を呑んだ。ユウマたちは自分たちが体験したことを話したところで大人は信じないだろうと思ったが、それでも正直に話す以外の方法が見つからず、スキューバダイビングを始めて光を見つけてから、海流で双子と離れ離れになったところまでを余さずに話すことに決めた。 ❁   ❁   ❁ 深海に置き去りにされたヒメとユヅルは今後の自分たちのことを考えると恐怖に震えたが、自分たちを包む淡い光が寸でのところで冷静さを繋ぎ止めてくれていた。ユヅルは周囲をぐるりと見回して自分たち以外の光が一切ないことを確認した。 「泳ごう、ヒメ」 「え……?」 ずっと黙り込んでいた双子の弟の発言にヒメは目を丸くした。もっと怯えて取り乱してもおかしくない状況で意外にも気持ちを強く持っているユヅルに驚きを隠せなかったのだ。 「泳ぐんだよ、どこまでも。泳ぎ続けなきゃ地上には帰れない」 ユヅルはどこまでも闇が続く頭上を見上げて「上へ」と付け加えると彼女の腕を引っ張って泳ぎ始めた。ヒメは否定も肯定もせず両足を必死に動かしてユヅルに腕を引かれるままに泳ぎ続けた。陸に戻りたいという一心で無我夢中だった。 一時間ほど泳ぎ続け、体力も限界を迎え始めたころ二人に転機が訪れた。もう永遠に闇しか見られないのかという世界で確かにきらりと何かが煌めいたのだ。二人は最初目の錯覚かと疑ったが、何度もきらきらと光る何かに歓喜に似た声を上げて大急ぎでその光を追いかけた。光との距離が徐々に近づき、二人の発光によってその存在を認識した途端ヒメたちは息を呑んで急停止した。光を放っていた存在はくるりと背後を振り返り、二人の姿を目に映すと驚愕した表情を浮かべた。 「どうして人間がこんな場所に!?」 「に、人魚だ!」 ユヅルは慌ててヒメの腕を掴み、反対方向へと逃げようとしたが、彼らの行動に人魚は狼狽えながらも「待って!」と声を上げた。白銀の髪を腰まで伸ばし、立派な赤い尾ひれを持つ女性の姿をした人魚だった。 「もしかして貴方たち人魚の王国(シートピア)から来たの?」 「人魚の王国(シートピア)?」 「人魚たちが暮らしてる小さな王国のことよ」 「そうなの!ヒメたち人魚に捕まりそうになって逃げてきたの!」 「やっぱりそうなのね。ごめんなさい、私のお母さまが……」 目を伏せて申し訳なさそうに謝罪した彼女に二人は顔を突き合わせると「お母さま?」と聞き返した。人魚は委縮したように肩をすぼめて息を吐いた。 「あの国で女王様に会ったわよね?彼女は私のお母さんなの。私はお母さまたちの考え方ややり方が嫌で人魚の王国(シートピア)から逃げ出してきたのよ」 二人は目の前の人魚の姿を見て、その美しい白銀の髪が女王様とそっくりであることを思い出したが、彼女の様子から嘘を吐いているわけではないと察し、その場から逃げる考えは頭の片隅に追いやった。 「人魚たちは人間が嫌いなの?」 「少なくとも人魚の王国(シートピア)に住む者たちはそうよ。それもこれもお母さまが人間を嫌っているせいね」 「どうして女王様は人間が嫌いなの?」 「海の恩恵を忘れ、海を汚し続け、海の生態系を破壊し、私利私欲のために海を利用する人間が許せないらしいわ。確かに人類の文明が発展するにつれて人魚たちはどんどんと海を追いやられていった。だけど全てが悪い人間だとは思えないの。私は人間のことも地上のことも何も知らない。お母さまに人間は悪だと教え込まれ続けてきたわ。でも、この目で確かめなければ分からないことも沢山あるはずよ。だから私はお母さまのやり方に反対した。結局聞く耳は持って貰えなかったけど」 人魚の話を聞き、二人は険しい面持ちを浮かべた。小学四年生の二人でも耳が痛い話だった。環境破壊の問題はニュースで取り上げられ、授業でも問題提起されて何度も地球の自然を取り戻すことについて話し合いがされた。港町に住んでいる彼らは海が汚染されていき、魚がどんどん獲れなくなっていることも知っていた。近くの浜辺にゴミが放置されているのをこれまでも幾度となく目撃し、悲しい気持ちになったのを覚えている。しかし、同時にヒメやユヅルにとって海とは日常の一部であり、欠かせない存在だった。当たり前に傍にあるものだと思い込んでいたが、人間の手で破壊され続けている海をかつての美しさを取り戻してほしいと強く願っていた。 「ヒメたち、海が大好きなの!だからいつもどうすれば海がもっと綺麗になるかってお話ししたりするし、町の人たちと一緒にゴミ拾いをしたりもしてるの」 「海を愛してくれているのね」 「うん!海を汚しちゃう人間は沢山いるけど同じぐらい海を大事にする人間も沢山いるの!ヒメの家族はみんなそうだよ!」 ヒメは自分の家族を思い出し、急激な寂しさに襲われた。せっかく家族でハワイ旅行にやって来て、今日はスキューバダイビングを楽しみ、ウミガメと写真を撮ろうと話していたのに、人魚に襲われ、深海をさ迷う羽目になってしまうなんてまったく予想もしていなかった。家族に早く会いたい。家族の下に早く帰りたいという想いが強くなり、涙が零れそうになるのをグッと押し堪えた。ヒメが我慢していることをすぐに感じ取ったユヅルは姉の手を握りしめた。 「人魚さん、僕たちもう地上に帰りたいんだ」 「このまま真っ直ぐ泳ぎ続ければ海面には出られるわ。でも、その場所は貴方たちが元居た場所とは違う場所よ」 「それでもいい。地上に出られれば必ず家族を見つけられるはずだから。海をさ迷い続けるよりも可能性はずっと高いよ」 いつもは決して見られない弟の頼りになる姿にヒメは活力を取り戻すと「そうだね!」と明るく頷いた。何としても地上へ帰り、家族と再会を果たすという二人の強い意思を汲み取った人魚は「私に任せて」と両脇に二人を抱え込んだ。彼女の行動に二人はキョトンとしたが、強く尾ひれを打ち付けると人間が生身では到底出せないようなスピードで海面に向かって人魚は泳ぎ始めた。ぐんぐんと上へ登っていき、次第に辺りの様子も変わっていった。海面に顔を突きだした三人は荒波に揉まれながら周囲を見渡した。見える景色は黒い海と黒い空。天気は最悪で激しい雨が降り、豪雨が海を怒り狂わせていた。三人は波に呑まれながら決して離れないように体をピッタリくっ付けていた。陸らしきものは見当たらないが、この場所がハワイではないことはヒメにもユヅルにも分かった。「陸を探さなきゃ……」とユヅルが呟いたとき、双子の頭の中に女性の声が反響した。 <想像して> 二人は同時に「え?」と己の頭に聞こえてきた声に困惑した。人魚にだけは声は届いていなかったようで、二人が不思議な表情を浮かべていることに「どうしたの?」と訊ねた。 「声が聞こえた気がしたんだ」 「ヒメも!女の人の声がして……」 <想像するの。貴方たちが居た海の景色と家族の姿> ヒメの言葉を遮って再び聞こえてきた声に二人は視線を交差させた。ユヅルは声に促されるまま波に攫われながらも瞼を下ろした。深く青い色をした海。宝石を散りばめたような煌めき。色とりどりの魚と奇妙な形を作る珊瑚。そして、海で楽しく笑い合う家族の姿。ユヅルに倣ってヒメもぎゅっと目を瞑ると記憶を蘇らせた。二人の行動を静かに見守っていた人魚だったが、突如真っ暗だったはずの海一面がエメラルドグリーンに輝きだしたことに瞠目した。その光はすべてに慈愛を注ぐ、母のような美しさと力強さがあった。エメラルドグリーンの光が徐々に眩くなっていき、三人を包み込むと荒波激しい海から三人の姿が消失した。 ❁   ❁   ❁ 子供たちは船の上に避難させられ、大人たちは海の中の捜索を続けていた。ユウマたちの話について大人は半信半疑ではあったが、実際に突然姿を消し、突然戻って来たのも事実だった。どんな事情であれヒメユヅルが無事に帰ってくることが家族全員の共通した願いだった。ユウマは船で揺られながらずっと祈りを続けていた。大切な弟と妹を守ってほしい、無事に送り届けてほしいと。海の声は必ず自分の願いを聞き届けてくれると信じていた。だからこそどれだけの時間が経とうとも祈ることを止めなかった。 「なんだ、海が……?」 大人たちの必死の捜索も虚しく双子を発見することが出来ず、そろそろ自分たちの手ではなく国の力を頼らなければならないかもしれないという雰囲気になり始めた時、大人に交じって泳ぎながら二人を探していたマコトが海の異変に気が付いた。その異変は最初こそ小さなものだったが、すぐに誰の目にも分かるほどのものとなった。「海が光ってる!」 トウタの台詞にずっと目を閉じて祈りに耽っていたユウマは両目を見開き、海がある場所を中心にエメラルドグリーンに輝いているのを目の当たりにした。その非日常な幻想的風景にユウマは海の声がようやく力を貸してくれたのだと確信した。光の中央だけは今まで通りの海を色を湛えていたが、その場所に三つの影が現れたのをユウマは目視した。三人?と違和感を覚えたのもつかの間、二つの小さな影の後ろに佇んでいた大きな影はさっと姿を消してしまった。そのことに気が付いたのはきっとユウマだけだろう。 「ヒメとユヅルが帰って来た!」 光りが眩しいあまりに全員が目を細めていたが、ユウマは光の中央に浮かんでいるのが双子だと確固たる自信の下声を張り上げた。するとその声を合図にしたかのようにエメラルドグリーンの光がまるで幻だったと錯覚する勢いで消え去ってしまった。海はかつての青色を取り戻し、穏やかに揺れていた。ユウマが指さした方向にはヒメとユヅルがぷかぷかと浮いていて、家族の姿に帰って来れたのだと安堵していた。「ヒメ、ユヅル…!」と真っ先に二人の下に泳いで向かったのは当然モモコとコウイチだった。二人はユウマたちを𠮟りつけたことも忘れて大切な我が子を抱きしめた。続々と他の大人たちも双子の下へ向かい、船は彼らを引き揚げるべくゆっくりと移動していった。 「あのね、ヒメたち人魚に襲われたんだけどそのあと別の人魚に助けてもらったの!」 「別の人魚?」 「うん、一緒にここまで来たの!ほら!……あれ?」 母親の腕から抜け出したヒメは後ろを振り返ったが、そこに居たのはミシェルとレイナだった。共にこの場所へとやって来たはずの人魚の姿は跡形もなくなっていた。大人たちはその場に人魚の姿がないことから、やはり子供たちは海で何か怖い目に遭い、その記憶を消去して補完するために人魚という話をでっち上げたのだろうと思い込んだ。先ほど海がエメラルドグリーンに輝いたことも目の錯覚か、はたまた海の何らかの事象だと思うことにした。「本当にいたんだもん!」と信じてもらえないことにヒメは怒りながらも、船に引き上げられると大人しくタオルを巻かれていた。ユウマはもしも人魚の存在が海の見せた幻であったとしても、自分たちを救ってくれた海の声の存在だけは決して偽りではないと信じていた。彼女のおかげでユウマたちは無事に家族の下に帰ることが出来たのだ。大人たちがせっせと船に乗り込む途中、ユウマは耳を澄ませてみた。今日も海の歌声が鼓膜を震わせ、ユウマは口元を綻ばせると指先を海に滑らせた。 「助けてくれて、ありがとう」 海の声はユウマのお礼に応えるように、そして子供たちの無事を喜ぶように透き通る歌声を響かせ続けた。
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