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第四章 夏の暑さと雪が共存できる可能性を知る
ハワイ旅行四日目。真珠湾でハワイアンレイを供え、黙祷を捧げたスメラギ一家は次にモアナルアガーデンへとやって来ていた。青い草が風に揺れ、小鳥たちが戯れる広々とした自然の中に威厳を供えて佇む大樹に皆が感嘆の声を洩らした。親たちやマコト、マリアンヌは「この木なんの木」のコマーシャルで見たものが目の前にあるということに感動していたが、子供たちにはいったいそのコマーシャルが何なのか知る由はなかった。
子供たちは大樹の下に集まり、木陰に生まれた夏の中の清涼に吐息を零した。ユウマは木の幹に手を触れ、自然の鼓動を感じることが出来た。まるで大樹の下だけは周りと切り離されたような異空間が演出され、ユウマの頭の中ではとなりのトトロのイメージが流れていると、トウタが「トトロの木みたい!」と言ったことで、幼稚園児と同じ発想をしている自分が恥ずかしくなった。鳥のさえずりが聞こえて顔を上げると、枝に三羽の白い鳥が羽を休めに来ていた。これだけ大きな木であれば、大勢の鳥たちの休息地となっているのだろうと想像し、ユウマは頬を緩めた。
暫くのあいだ子供たちは大樹の下で思い思いの時間を過ごしていたが、ふとユウマは頬に冷たい何かが当たったことに肩を跳ねさせ、ひんやりと広がる冷気に指先で触れると恐る恐る大樹を見上げてみた。すると木の葉の隙間から数多の氷の結晶が降り注いでいるのが視界に映った。とても理解できない状況にユウマは「えっ」と素っ頓狂な声を洩らした。間抜けな顔を晒して大樹を仰向くユウマにエミールがいつも通り侮辱の台詞を投げかけようとしたが、ヒメが「雪が降ってる!」と叫んだことで、彼の口まで出かかった悪態は呑み込まれた。
「こんなに暑いのに雪なんて……」
エミールはそんな異常気象が起こり得るはずがないと反論しようとしたが、自分の肌にも氷の結晶が落ち、溶けて水になる様を目にしてギョッとした。大樹からしんしんと雪が降り注いでいるのだ。その影響か大樹の下は涼しさを通り越して肌寒さを感じさせた。トウタは大きなくしゃみをして、ずずっと鼻をすすった。大樹の下は異空間のようだとユウマは思っていたが、まさに異空間が作りあげられてしまっている。大樹の外に一歩踏み出せば、燦々と照り付ける太陽が肌を焼く夏のハワイが待ち受けているからだ。
「こんなこと出来る人なんて彼しかいないよ!」
驚嘆と興奮を交えた子供たちにユウマが目配せすると、ちょうど子供たちとは反対側の木の幹に隠れていた魔法使いが姿を現した。今日も変わらずに全身漆黒で覆われ、青白い肌には二つの小麦色の瞳が浮かんでいた。子供たちは異常気象が突発的に始まったものではなく、魔法使いの手によって起こされたものだと知り安心した。昨日人魚の王国に迷い込み、散々な目に遭ったばかりだったからだ。
「夏と冬を同時に体験することも魔法を使えば造作もないことだ」
彼が指を鳴らすと大樹の下の地面だけは雪が積もり、雪遊びをするには十分なほどに様変わりした。大はしゃぎするトウタはエミールを誘い、さっそく雪だるまづくりに取り掛かった。雪をかき集め、転がしながら大きな雪だるまの完成を夢見ていた。ユウマもこれだけの雪が積もっていてじっとしていられるはずもなく、ヒメとユヅルを招集し、かまくら兼小さな滑り台を作ることにした。子供たちに交じって大樹の下に降り注ぐ雪の結晶に感動していたマコトとマリアンヌは子供たちを見守る役に徹することにして木の根に腰を下ろした。魔法使いは二人が座る箇所だけ雪を溶かすささやかな気遣いを忘れなかった。
「ハワイに来てからおかしなことばっかだな」
大樹の幹にもたれかかり、手前には降り続ける雪の結晶、奥には熱を宿した太陽の陽を見ながらマコトは今日を含めた数日を振り返り、乾いた笑みを洩らした。マリアンヌは口元に手を当ててお上品に笑うと「とても素敵な経験よ」と違った感想を述べた。マリアンヌの前向きでマイペースな性格にも慣れたマコトだが、人魚事件を思い出すととても素敵とは言えなかった。
「魔法使いってだけでファンタジーの世界そのものなのに、昨日の人魚はアイツは関係ないんだぜ。ハワイは相当おかしな場所だってことだよ」
「ハワイに来た人たちは皆こんな体験をしてるのかしら」
「まさか!違うとは言い切れねえけど、皆が皆こんな体験してたらハワイは今以上に人気な観光地になるぜ」
「じゃあ、きっと私たちとハワイが干渉したから起こったことなのね」
マコトは夢見がちなマリアンヌの考え方に異論を唱えようとはしなかった。実際になぜ自分たちがハワイでこのような体験をしているのか説明することは不可能だった。偶然が折り重なった奇跡か、はたまたそういった運命だったかのどちらかだろう。どちらにせよ楽しいことは歓迎し、危険は出来る限り遠ざけるのが吉だった。
「昨日はエミールがスキューバダイビングをする気を起こさなくてよかったな。これ以上海を嫌いになられちゃ、港町には住めないだろうし」
「あの子、無理してないかしら。あまり弱音とか吐かない子だから」
マリアンヌはトウタと協力して雪だるまづくりに励む弟を見つめた。マコトは暫く思考を重巡させたが「大丈夫だろ」と応えた。少しばかり素っ気ない態度ではあったが、マコトは決してエミールのことがどうでもいいというわけではなかった。フランソワ家も従兄だろうと同じ家に住む家族だ。ただ自分たちに出来ることは見守ってやるか、助けを求められたときに応えてやるぐらいだろうと考えていた。最年長の兄として、マコトはいつも弟たちとの関係の築き方には四苦八苦していた。親たちの気持ちも分かる年齢になり、教育や躾にも加わらなければならない立場で、可能な限りに子供たちの味方でいたいと思っていたが、親の苦労も理解できるため板挟みの立場だった。
「マコトは無理してない?」
「俺はいつでもお前たちに振り回されて無理してるっつーの。まぁ、それが長男の役目だからな。面倒に感じることはあるけど苦痛じゃない。そういうマリアンヌはどうなんだよ」
「私は毎日とても楽しいわ。皆のおかげでね」
上目遣いにマコトを見上げたマリアンヌは口元を綻ばせた。マリアンヌは学校ではまるでアイドルのように持て囃され、その可憐さと美しさで男子生徒だけでなく多くの女生徒からも羨望の眼差しを向けられていたが、マコトからしてみれば、まだ子供の可愛い妹でしかなかった。確かに人を魅了するだけの美しさが外面にも内面にも備わっているが、家族だからこそその美しさを知りながらもそれ以外の部分に大きな魅力を感じていた。
「マコトお兄ちゃんも見てないで手伝ってよ!マリアンヌも!」
せっせとかまくらを作っていたヒメが二人して談笑している姿を発見し、声をかけると手招きをした。マコトは盛大なため息を吐いたが、渋々と腰を上げると「仕方ねえな」とぼやいてヒメたちの下に向かった。マリアンヌも立ち上がり、スカートに付いた草を払い落として後を追いかけた。
子供全員の奮闘により、大きな雪だるま(グラキングと命名された)と三人ほどが入れるかまくら兼滑り台が完成した。しかし、せっかく滑り台を完成させても滑るボードがないことに気が付き、子供たちは氷でボードを作るように魔法使いにせがんだ。魔法使いにとってはそんなことは造作もないことだったが、彼が魔法を使うより早く遠くでユウマたちを呼ぶモモコの声がした。子供たちがハッとして声のした方へ振り返ったのと同時に、先ほどまで大樹の周りに降り積もっていた雪も、しんしんと降り注いでいた雪の結晶も、皆で協力して作り上げた雪だるまもかまくらも、そして、魔法使いの姿も最初からなかったかのように消失してしまっていた。ユウマたちは「あっ」と声を洩らし、互いに顔を突き合わせた。夏の暑さが生んだ幻覚と思えるほどに一瞬の出来事だったが、彼らの肌には確かに冬の寒さが残り続けていた。
❁ ❁ ❁
明日は朝一番からダイヤモンドヘッドに上りに行くという予定が立っていたため、スメラギ家は早い時間にホテルへと帰り、夕食のバイキングまでの時間を思い思いに過ごすことにした。ユウマは部屋のバルコニーから夕方の海を眺望し、オレンジ色に染まる光景を静かに楽しんでいた。部屋からはヒメとユヅル、コウイチの三人がトランプゲームで盛り上がっている声が聞こえてきていた。モモコはオーシャンビューが楽しめる部屋に備え付けられたお風呂を満喫中だった。ユウマは瞼を下ろして海に耳を傾けてみたが、バルコニーからでは海の声を聞くことは出来なかった。それでも、日本からハワイまで、更には人魚の王国にまで共に付いて来てくれた彼女ならいつでも傍にいてくれているような気がしていた。
「ユウマ、ハワイの海はどうだ?」
いつの間にか部屋でスマホをいじって時間を潰していたマコトがバルコニーへと出てくると、弟の隣に並んで風に揺れる椰子の木やその先で夕日を水面に映す海に目を馳せた。ユウマは兄の問いかけにハワイへ来る前夜の会話を思い出し、微かに笑みを零した。
「ハワイの海は想像してたより濃い青色だったよ。あと潮の香りもしない。でも、日本と変わらないものもある」
「日本と変わらないもの?」
ユウマは開きかけた口を閉じて沈黙を貫いた。なぜ海の声のことをこれまで家族に話してこなかったのか。そんな疑問がユウマの中には生まれた。以前のマコトなら鼻で嗤うだけでユウマの話など信じなかったかもしれないが、ハワイに訪れて魔法使いに出会い、空を飛んだり夏に雪を体験した。昨日は人魚にだって出会った。今のマコトなら海の声のことを話しても信じてくれるのではないだろうかと思った。ヒメやユヅルなら尚更だ。だが、ユウマは少しの間思案していたが、やはりマコトに話すのはやめておいた。海の声が止めたわけではないし、マコトに打ち明けたくないと思ったわけでもない。ただ、今はまだその時ではないと直感的に感じたのだ。ユウマは不思議とマコトやヒメ、ユヅルよりももっと最初に海の声のことを伝えなければならない人物が居る気がした。その人物がいったい誰なのか、ユウマには皆目見当も付かなかったが、離すべき人に打ち明けた後、家族たちにも海の声のことを教えても遅くはないと自分を納得させた。
気難しい顔で緘黙しているユウマにマコトは鼻を鳴らすと「たかが小六でなに難しそうにしてるんだよ」と肘で軽く肩をご突いて揶揄った。ユウマは大切な思考を中断させられたことにムッとしたが、強く言葉を返すことはなく「何でもない」とだけ応えた。
「エミールとはどうだ?」
「は?エミール?別にいつも通りだけど……」
何の前触れもなく嫌いな相手の名前を出されたユウマはあからさまに眉間に皺を寄せ、つっけんどんとした態度を見せた。弟の子供らしい振る舞いにマコトはケラケラと笑うと「だろうな!」と意味も持たない相槌を打ち、余計にユウマを苛立たせた。
「でも、そろそろエミールと真面目に話したらどうだ?せっかくの機会なんだしな」
「エミールと話し合うことなんて何もないよ」
訳の分からないマコトの台詞にユウマは訝しげな面持ちを浮かべた。ユウマへと向き直ったマコトは肩を竦め「エミールがどうして海が苦手なのか、考えたことないか?」と質問をした。ユウマは何故そんなことを聞いてくるのか理解が出来ずに「知らないよ」と首を横に振った。まるで兄の言い回しではエミールが海を苦手になった理由はユウマにあると取れるようだった。ユウマは心の内がざわつくのを感じ、言い知れぬ不安に襲われたが、エミールに何かをしてしまった覚えはなかった。幼い頃は決して仲は悪くはなく、二人で遊んでいたこともあったはずだが、次第にエミールがユウマと距離を置き始め、その態度が冷たくなっていき、気が付けば今の二人の関係が完成されていた。ユウマはエミールが勝手に自分のことを嫌いになったのだと思っていた。相手が嫌ってくるのだから自分も嫌いになる。実に単純なことだ。そこに理由があるかどうかなど考えたこともなかった。エミールが海を苦手になった理由。エミールがユウマと距離を置き始めた理由。エミールがユウマに冷たく当たるようになった理由。それらすべてには繋がりがあるのかとユウマは深い思考の渦に呑まれかけたが「ビーチに降りようぜ」というマコトの誘いにユウマは意識を引き戻した。
「ヒメ、ユヅル、一緒にビーチ行くか?」
マコトは何事もなかったかのように明るい調子で部屋を振り返り、双子にも誘いをかけた。ヒメはババ抜きで三度も負けてしまったことに不満を募らせていたこともあり「行く!」と元気よくベッドの上に立ち上がってぴょんぴょんと飛び跳ねた。ベッドが軋むのと同時にばら撒かれたトランプがヒメと一緒になってベッドの上を躍っていた。「僕も行く」とユヅルが首を縦に振ったのを確認し、マコトは無言でコウイチへと目配せした。
「父さんは部屋に居るから、四人で行っておいで。マコト、三人から目を離すんじゃないぞ」
「はいはい、分かってるって」
マコトはヒラヒラと片手を振ると背中を向けていたユウマに「行くぞ」と促してバルコニーから部屋に入った。ユウマは一言も行くとは言っていなかったが、ビーチに下りてサンセットを見たい気持ちは十分にあり、文句ひとつ言わずにマコトの後に続いた。
四人はホテル裏手のビーチにやって来ると人が少なくなった白い砂浜に並んで腰を下ろした。マコトはスマホで何枚か海の写真を撮っていたが、ユウマは手元にカメラを持ったまま動こうとはしなかった。「写真撮らないのか?」と訊ねられたユウマは言葉に迷ってしまった。
「なんか、今すごくハワイにいるんだなって実感してたから」
「今更かよ。もう四日目も終わろうとしてるってのに」
ユウマの返答を聞いたマコトはおかしそうに肩を揺らすと、つられてユウマも小さく吹き出した。兄弟で楽しげに笑っている様子にヒメは目を丸くしていたが、ユヅルが「もう四日も終わったんだね」としみじみと呟くのを聞くとニヤニヤと意地悪な笑みを口元に湛えた。
「ユヅル、ハワイなんか行きたくないって言ってたの!なのに今はもっとハワイに居たいって思ってるの!」
「そ、それは……」
「なんだ、ユヅル。ハワイ気に入ったのか?」
「だって毎日すごく楽しいし、魔法使いさんの魔法も見れるから。み、みんなはもっとハワイに居たくないの?」
三人の視線が一斉に自分に注がれたことでユヅルはしどろもどろになっていたが、マコトは後ろに両手を付くと「まだ三日もあるだろ!」と切ない雰囲気を吹き飛ばすように言った。
「そうなの!残りの三日もたくさん楽しむの!明日は山に登るんだよ!」
「ぼ、ぼく山登りは苦手だな」
明日に控えたダイヤモンドヘッドにユヅルは落ち着かない様子だったが、対照的にヒメは山頂から見える景色が楽しみで仕方ないようだった。相変らず対照的な双子の性格にマコトは朗笑し、ユウマは隣に座った至近距離で双子の姿をレンズに収め、次に破願している兄の姿に対してシャッターを切った。
「ハワイに来てから景色の写真ばっかりで、人の写真あまり撮ってなかったかも」
「おいおい、せっかくの家族旅行だってのに薄情な奴だな」
「そんなんじゃないよ!だってハワイは珍しい景色が多いし。そういう兄さんは何撮ってるの?見せてよ!」
ユウマはマコトの手に持たれていたスマホを無理やり引ったくり、画像フォルダを開いた。マコトは「あ、おい!」と声を荒げて弟から取り返そうとしたが、三人が身を寄せ合ってスマホを覗き込んだせいで手出しが出来なくなった。マコトの画像フォルダにはハワイの景色や街並みの写真が何枚か入っていたが、それ以上に家族の姿が映った写真(記念撮影よりも自然体のものが多かった)が並び、彼がいかに家族のことを見ていて、それを写真に収めているかがよく分かった。
「皆の写真ばっかりだ!」
「マコトお兄ちゃんはヒメたちのこと大好きなの!」
揶揄う意図はなく純粋に喜びを露わにした弟たちにマコトは気恥ずかしくなって「うるせぇな」とぼやくと顔を逸らしたが、ユウマたちはこの写真はいつの時だの、この時にはこんなことがあっただの、変な恰好や顔で映っている家族を笑ったりだの、長男の撮った写真で大いに盛り上がっており、そんな弟たちの姿にマコトも自然と頬を緩ませていた。
偶然にも客室のバルコニーでチェアに腰かけてジュール・ヴェルヌの地底旅行(読むのは七度目)を読みふけっていたエミールは賑やかな声がビーチから届いたことに本から顔を上げた。椅子から立ち上がってビーチを見下ろし、ユウマたちの姿を発見すると本をテーブルへと置いて仕切りに肘を置いた。四人の会話までは聞こえなかったが、きょうだい揃って楽しげに笑っているのがよく分かった。すると彼らの背後からコウイチとモモコもやって来て、四人を驚かせると、更に笑い声は大きくなった。六人家族が並んでビーチに座り、サンセットを眺めている姿を見てエミールは温かな気持ちを抱いたが、同時に自分には母親が居ないという現実を強く思い出してしまい、寂莫とした感情に襲われた。それでも、無意識のうちにポケットからスマホを取り出したエミールは彼らの後ろ姿を写真に収めた。自分で撮った写真を俯瞰し、エミールは目を伏せるとスマホをポケットにしまった。
「おーい、エミール!読書タイムは終わったのかな?そろそろ父さんのこと構ってくれよう!」
ふと後ろから呼ばれたエミールは部屋を振り向き、ひょっこりとバルコニーに顔を出すミシェルの台詞にクスクスと笑った。お風呂から出てきていたマリアンヌも「ゲームしましょう?」と自宅から持ってきたいくつかのゲームをせっせとベッドに出していた。エミールはユウマたちを一瞥したあと「うん、いいよ!」と年相応の無邪気さでミシェルとマリアンヌに相好を崩し、小説を手に取って部屋の中へと入っていった。
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