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「……あのさ、ちょっといいか?」
匠海がいつまでも帰らないな、と思っていたらぼそぼそとそんなことを言う。ちょっと? と首を傾げると、外を指さした。
なぜ、と言う前に匠海は外に歩き出してしまった。せめて返事を待てよ、と思えど、まあ仕事は終わったしと着いていく。
今日もよく晴れていた。前の畑に成る野菜が、つやつやと光っている。トマトも茄子もピーマンもたわわに実りすぎて収穫が追いつかない。
さざなみ荘前の坂道を下りていく匠海の背中が、汗で濡れていた。海から風が吹いてくる。
匠海はそのまま浜まで歩いていった。浜といっても砂浜ではなく、コンクリートの大きな堤防になっている。一応漁港として名前がついているそこは、東日本大震災後、工事を経て様変わりしたそうだ。
小さな舟が並び、ウミネコが留まっている。漁に使う道具が置かれ、海の匂いをぎゅっと濃縮させたような網が丸まっている。
誰もいない浜に、波の音と鳥の鳴き声だけが響いていた。
「あのさ」
不意に立ち止まった匠海が、こちらを向く。
午前中は外にいたのだろうか、頬の高い位置が赤く焼けていた。
「来月、港まつり、あるだろ」
「うん」
「今年さ、一緒に行かね?」
にゃー、と高い声でウミネコが鳴いた。
「……港まつりに?」
「おう」
何をいきなり、とは思わなかった。
港まつりは、八月に本土で行われる大きなお祭りだ。大きな漁港で露店も出るし、夜には四千発の花火が上がる。
友人に聞けば、いわゆる青春の一ページになる、貴重な機会。去年は男女あわせて仲のいいグループで行った。
もちろん匠海もいた。
ただこんな風に、誘われはしなかった。
薄々、感づいてはいた。知らんぷりしてたけど。友人たちも「つきあっちゃいなよ」とはやし立ててたし。
匠海は悪い奴じゃない。高校でもそこそこモテる気配がある。気遣いがうまく、何事も丁寧で、距離感を間違えない。
むしろ、私にはもったいないぐらい、いい奴だ。
「まあ、べつに今決めなくてもいいし」
悪いこんなこと突然言って。そうこざっぱりとした調子で匠海が続ける。
「いや……えーと、誘ってくれたのは」
うれしい。
そう言いそうになって、慌てて飲み込んだ。
「感謝して、る。うん。ただその日、まだちょっとわかんなくて」
「悪い、用事あったか?」
「いや、真咲さんが今年も飲食スペースに出す、って」
そうか、と匠海が頷いた。
真咲さんなら「そんなの手伝わなくていいからいってきなさいよ」って言うだろう。「私が好きでやってるだけなんだから、菫ちゃんは好きなことしてよ」が彼女の口癖だ。この間も、進路のことで言われてしまった。大学じゃなくてもいいから、一度ここから出ていろんな世界を体験して欲しい、と。
「じゃあ、もしわかったら……よかったら、言ってくれたらいいから」
匠海は表情を変えなかった。私がそれに頷くと「わざわざごめんな」と浜を出て行く。タッパーの入った白い紙袋に太陽が反射して、私は目を細めた。
ざざ、と波がいう。
申し訳ないと、心から思う。兄からの頼みとはいえ、私みたいな奴と仲良くし、悪くないと、すくなくともなんらかの好意を抱いてくれたのに。
でも、私には無理だ。
ひとつに結んでいた髪が、はらりと胸に落ちてくる。
母は、私を十七で産んだ。
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