モンテーニュ夫人のおねだり

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モンテーニュ伯爵夫人の可愛いおねだり やや小柄だが、豊満で妖艶な肢体。体とはアンバランスな、少し幼い顔立ち。だというのに、ぽってりとした唇は艶めいて、丸い瞳は熱っぽく潤んでいる。 田舎男爵の4女という端っぱ令嬢でありながら、その美貌で社交界を席巻した少女。名を、ソフィア・モンテーニュ。その美しさを見初められ、現在は伯爵夫人となった18歳の娘。 彼女が視線を送る先にいるのは、彼女の伴侶たる夫、マクシミリアン・モンテーニュ。お世辞にも美しいとは言えない顔立ちの上に、でっぷりと肥え太り、頭髪もやや薄くなっている。彼女に向ける視線は興奮を孕んで、普通の令嬢が彼からそんな視線を向けられでもしたら、きっと顔を青くして後ずさるだろう。言ってみれば、夫たるモンテーニュ伯爵は、いわゆるキモ豚だった。 とはいえ、容姿には恵まれなかったものの、伯爵には多額の資産があった。その金でソフィアを買ったのだと、社交界では噂になっている。だから初めの頃は、美貌の令嬢ソフィアが、モンテーニュ伯爵に嫁ぐことに同情を寄せられていた。 しかし、時を経るにつれて、彼女に対する視線は憐憫から呆れに変わっていった。そして噂も変容していた。ソフィアがその美貌でモンテーニュ伯爵を誑かし、伯爵の財産を湯水のように使い豪遊していると。 果たしてどちらの噂が正しいのか、外野にはわからないことである。 「ねぇ、あなた。お願いがあるの」 「なんでも言ってごらん。君のおねだりなら、なんでも聞いてあげるよ」 「うふふ、嬉しい」 「デュフフ、さぁ言ってごらん」 「うふふ。あのねぇ…」 夫妻は身を寄せあって、言葉を交わす。可愛い幼妻のおねだりを聞き入れるキモ豚の図である。 この場面だけ見れば、後者の噂が立つのもやむなしなわけだ。 しかし、真実を知っている者だって、当然いるわけである。 それが、現在この夫婦を部屋の隅から眺めている使用人達である。 「また始まったな…」 「奥様は、今度は何を言い出す気かしら」 執事と侍女がコソコソと会話を交わす。伯爵夫妻がイチャイチャしながら、夫人がおねだりをして、伯爵がデレデレしながらそれを快諾するというのは、もはや日常茶飯事である。 例えばそのおねだりが、ドレスを買ってだとか、宝石が欲しいだとか、そういうありふれたものならば、まだ良かったのかもしれない。 しかし、夫人のおねだりは、常に予想を超えていた。今日もまた、夫人はその魅力を遺憾無く発揮しながら、伯爵におねだりを始める。 「あのねぇ、私ね、欲しいものがあるの」 「なんだい?なんでも言ってごらん。君のためなら世界一大きなダイヤだって、西の国の最高級の絹のドレスだって、手に入れてやろう」 「嬉しいわ。でも、欲しいものは宝石でもドレスでもないの。あなたと一生、死を分かつまでそばにいたいの。その為に、どうしても必要なものがあるのよ」 一生そばにいたい。その言葉に伯爵は感激したらしい。細い目を見開き、太った頬がプルプル震えている。その様子を見て、夫人はにっこりと微笑んだ。 「ねぇ、マクシミリアン。私の大事な人」 「あぁ、あぁ、ボクの宝物。望みを言ってくれ」 感激しながら返事をした伯爵に、夫人はついに告げた。 「病院を建てて欲しいの」 「病院…?」 ほらね〜と、使用人2人は宙を仰いだ。 伯爵夫人は、いつもこうだ。可愛らしいが、おねだりの中身は全く可愛くないのである。可愛く言っているが、全然可愛くない。 今までもそうだった。 浮気はダメと言って初夜権を撤廃させ、お尻痛いのヤダと言って街道を整備させ、頭の悪い子どもなんて嫌いと言って無償の学校を作らせ、浮浪者や街の汚いところなんか見たくないと言って、浮浪者を雇用してクリーニング商会を創設させ、旦那様よりお金を溜め込むなんて生意気と言って賄賂の蔓延っていた部署を人事異動させたり。 確かに夫人は、伯爵の財産を湯水のように使っている。しかし、確実に町は清潔になり、市民の生活は豊かになっているのだ。 夫人が嫁いでからというもの、伯爵夫妻の市民からの人気はストップ高である。 「今度は病院か…」 「診療所はあるけれど、街の規模に比較したら小さいものね」 「それにヤブだし、アコギな医者だしな」 「病床数が増えて、医師の数も増えたら、救える命も増えるのでしょうね」 「行政主体で運営するなら、吹っかける事もないだろうしな」 やれやれ、と使用人2人が苦笑して見つめる先、肝心の伯爵夫人は、やっぱり愛らしくおねだり中だ。 「ねぇ、ダメ?」 「まさか!ダメな訳がない。しかし、建物はともかく医師の確保をどうするか…」 「…無理なの?」 夫人は今にも泣き出しそうな顔をして、伯爵を上目遣いに見つめる。その視線に伯爵は慌てて頭を振った。 「いいや、やってやるとも!」 「きゃあ!あなたってなんて素敵なの!大好き!」 途端に笑顔になった夫人が抱きつくと、伯爵は人には見せられない程に顔を蕩けさせた。 流石にもう見慣れた。大丈夫、大丈夫だ。使用人2人は自分に言い聞かせる。 かくして、突然モンテーニュ総合病院建設計画が始まった。関係各所はまたかと思いつつも、雇用の促進、医療の確保に伴う市民の健康増進と人口増加、町内の建設業者への仕事の斡旋など、この事業を通して得られる利益に高揚した。 役人達は口々に言う。伯爵は変わった。 かつてのモンテーニュ伯爵は、心の醜さが見た目にも現れていると言われるほど、卑しい男だった。 金にがめつい守銭奴で、元々の事業であった金融業では、取り立ても厳しく利率も高め。一切の容赦もないため、破産し路頭に迷った人間は多かった。 伯爵の手腕は卓越したものであったから、ビジネスパートナーとして頼られることは多々あった。しかし、金があるのをいい事に横柄で傲慢であったし、何もかもを金で解決した。人の時間や体も金で買った。人の心以外で、彼に買えないものなどなかった。いや、場合によっては心すらも買えた。 そんな伯爵が、唯一金を使わずに手に入れたのが、夫人であるソフィアだった。 ソフィアは田舎男爵の4女だった。一応貴族だが、その暮らしぶりは平民と変わらなかった。子どもの頃は、近所の友達や兄弟と野山を走り回っていた。 故にソフィアは世間知らずで、純粋な娘だった。加えて愛らしい顔立ちの末娘で、愛されて育ったこともあり、大変に甘え上手でもあった。 ソフィアと伯爵が初めて出会ったのは、王都で開かれた王族主催の夜会だった。数日前にデビュタントを済ませたばかりの子女を、王族が招待した大物貴族にお披露目する夜会。実質ソフィアにとっては初めての大舞台だった。 ソフィアが会場に現れると、徐々に彼女に向けられる視線は増えた。15歳とは思えない美しさと色気に、人々は釘付けだった。まだあどけなさの残る顔に浮かぶ緊張が、一層初々しさを引き立てている。匂い立つような色気と処女性、相反する魅力が見事に混在していた。 当然、マクシミリアン・モンテーニュ伯爵も、目を奪われた一人。ソフィアに声を掛けようとする貴族男性を押しやりながら、ソフィアに近づいた。 これまでも、金の力で女などどうにでもしてきた。選り好みはしたが初夜権だって行使したし、金に困った若い娘を愛人として置いていた。 だが、ソフィアは格が違う。これ程の娘を手に入れない理由はない。 モンテーニュ伯爵の心の内は、いっそ清々しいと言えるほどに下劣なものだった。 それは彼にとっては当然だった。モンテーニュ伯爵は、女性が嫌いだったからだ。 幼い頃から容姿を揶揄されて馬鹿にされた。能力は父親をも凌いだのに、容姿が劣ると言うだけで、女性からは鼻で笑われ袖にされた。 屈辱だった。悔しかった。だから、屈服せざるを得ない女性達を見て、かつて自分を馬鹿にした女性達に復讐した気になっていた。 心底馬鹿馬鹿しいと、己の容姿を呪いながら。 それでもモンテーニュ伯爵は、ソフィアの前に立った。 もう彼は、諦めていたからだ。心の乾きを癒すことなど、自分には出来ないのだと。 なまじ金があったのが、悪い方に作用した。もうやめるきもなかった。いくらでも悪辣な噂を立てればいい。どんな噂をしようが、頭を下げて金を無心しに来る者を見下ろすのは、いつだって彼の方。 モンテーニュ伯爵にとっても、誰にとっても、金の力は強大な力だった。 「初めまして、ご令嬢。名を聞いても?」 「あ、その、はい…。モーリッツ男爵家の4女、ソフィアと申します」 緊張した面持ちだったが、礼をしたソフィアと視線がかち合う。その視線に、モンテーニュ伯爵は違和感を感じた。 初見から宝石のように煌めいていた瞳は、一層潤んでいる。更にはほんのり頬を染めている。 青ざめたり、顔を背けられたり、眉を寄せたり、そんな表情なら山ほど見てきたが。 こんな顔をされたことがなかったモンテーニュ伯爵は、首を傾げた。 「ソフィア嬢、体調が優れないのか?」 「いえ、そのような事は…」 「顔が赤いようだが、熱でもあるのではないか?」 「だ、大丈夫です!」 指摘すると、更にソフィアは顔を赤くした。モンテーニュ伯爵の頭の中は疑問符だらけだ。 しかし、本人が大丈夫と言うのなら、大丈夫なのだろうと結論づけた。 「私はマクシミリアン・モンテーニュ伯爵だ。ソフィア嬢、私と踊って頂けるかな?」 彼の問いかけに、周囲がざわめく。あの醜男は、また若い子女を手にかけようとしている。そんな聞きなれた噂が飛び交う中、ソフィアはぱあっと顔を輝かせた。 「はいっ!喜んで!」 「ありが…ん?」 聞きなれない単語に、モンテーニュ伯爵は聞き返した。ソフィアはこてんと首を傾げながら、同じ言葉を繰り返した。 「喜んで!」 「喜んで?」 「喜んで!お相手させてくださいませ!」 「?ありがとう…?」 ソフィアは見るからに喜色満面だった。喜んで自分のダンスの相手をする女性は初めてだったので、モンテーニュ伯爵は首を傾げっぱなしだったが、金目当てなのだろうと結論づけ、ソフィアをエスコートした。 ダンスをしている間も、ソフィアは体を密着させて、潤んだ瞳で熱っぽく見つめてくる。 信じられないことに、この美少女は彼に気があるようだ。流石に彼もそれに気づいた。 そうであれば手間が省けるとばかりに、ダンスが終わると2人でバルコニーに出た。バルコニーにいくつかあるベンチに、2人で腰を下ろす。 「夢のようですわ。モンテーニュ伯爵のような素敵なお方と、この様な時を過ごせるだなんて」 うっとりと見上げてくるソフィアに、彼は引きつった笑みを返すのが精一杯だった。 普段なら自分からグイグイいくし、なんなら脅しすらする。 だからこそ、女性からグイグイ来られるのに免疫がなかったのである。 しかも相手は極上の美少女である。彼は混乱していたし、なんだか心地の悪さのようなものを感じた。それを少しでも和らげたかったから、質問することにした。 「ソフィア嬢、君はその…私が誘うのは嫌ではなかったのか?」 まぁ、とソフィアは目を丸くした。 「んもう、お聞きではなかったのですか?夢のようで、幸せな気持ちでございます」 そういえば言っていた気がする。 「なぜだ?」 「なぜ、とは?」 「女性は私のような男は好かないだろう」 自嘲とも取れる問いに、ソフィアは目を瞬かせた。そして、ムッとしたらしく頬を膨らませた。 「他の女性の事など存じ上げませんし、他の女性の話をされると、わたくし嫉妬してしまいます」 今そんな話してたっけと思いつつも、ふくれっ面をしているソフィアを、可愛らしいと思ったら、笑ってしまった。 何を笑っているのかと、ソフィアはますます膨れたが、彼は笑いっぱなしだった。 ややもすると、ソフィアもにっこりと笑った。 「やっと、笑ってくださいましたね」 「…そうか?」 「ええ。笑ったお顔も素敵ですわ。私が伯爵を笑わせることが出来たなら、私もとっても嬉しいです」 ソフィアは心からそう思っているようで、浮かれた様子で上機嫌になった。その顔を見ていると、なんだか彼の心の中にも、暖かいものが湧き上がった。 「君は、不思議な子だな」 心の中で思った事をつい口に出した。当のソフィアは首を傾げている。 「そうでしょうか?」 「そうとも」 悪辣でキモ豚な守銭奴だとか、陰口の方が遥かに多いモンテーニュ伯爵は、ソフィアのように純粋な好意を向けられることに慣れていない。 だが、間違いなく彼は、それを求めていたのだろうし、きっと飢えていた。 乾きを止められるのは、きっとソフィアしかいない。そう確信したと同時に、本当にそれで良いのかと不安が頭をもたげた。 ソフィアは男爵家の娘だ。名前は聞いたことがあるようなないような。つまり弱小貴族。金で娶ることは簡単だろう。 そうして彼女を手に入れて、本当の彼を知ったソフィアが、もし失望したら? そう考えたら、急に臆病風に吹かれた。 「そろそろ中に戻ろう。ご父君も心配だろう」 「それには及びませんわ。父にはいい男をゲットしてこいと送り出されました!」 「…君の家は自由なんだな」 つまり現在のソフィアは、放たれた猟犬である。そして彼が獲物認定されて捕まった。 「なんだこれは…」 「なにかありましたか?」 「いや…」 やはり混乱しかけたが、モンテーニュ伯爵は思い切って尋ねる事にした。 「正直に答えて欲しい」 「内容によっては無理ですわ」 前置きから否定された。流石に面食らう。ちょっと戸惑ったが、改めて尋ねる。 「何故?」 「内容によっては、恥ずかしかったり、傷つくこともあるでしょう?」 確かにそうだなと思う。 「では、どうしたら質問に答えたくなる?」 ソフィアは少し宙を仰ぐと、すぐに視線を戻した。 「伯爵のお心の内をお話頂けたら、私も安心できますわ」 「不安なのか?」 「不安ですわ」 「何故?」 ソフィアは口を尖らせて、拗ねたように言う。 「私ばかり手の内を晒すのは、悔しいではありませんか」 恨めしそうに見上げてくるのを見ていたら、やはり笑ってしまった。 「ははは」 「もう!笑わないでくださいませ!」 「ははは。すまない」 笑いが引いてきた頃には、穏やかな気持ちになっていた。臆病風はまだ吹き荒れているが、誘導尋問なんかしてはいけない、そんな気持ちになっていた。 何故かはわからない。だが、彼女には誠実にありたいと、彼はそう感じた。 本当の自分を知ったら、失望されるかもしれない。それなら、これからは彼女には誠実であればいいのだと、覚悟を決めて。 「ソフィア嬢、私が婚約を申し込んだら、君は受けてくれるか?」 恐らくは人生で初めて。誠心誠意の彼の問いかけに、ソフィアは満面の笑顔で「はい!」と返したのだった。 かくして、彼は初めて、本当に欲しいものを手に入れた。 後日談。ソフィアの一目惚れだったそうだ。奇特な娘である。 そんなある日、珍しく夫人は言いにくそうにしていた。 「どうしたんだ、ソフィア。お願いがあるんだろう?」 「そうなの…でも、その…」 普段からは想像出来ないほど、夫人は俯いて口ごもる。さしもの伯爵もただ事ではないと感じたようで、優しく彼女の背中を撫でる。 「ゆっくりでいい。ボクは君を拒否したりしない」 その言葉は嘘ではないと、夫人もよく知っている。伯爵は、夫人に対してだけは、どこまでも誠実だった。 それを彼女もよく理解していたから、思い詰めた表情ではあったが、顔を上げた。 「あのね…」 「なんだい?」 「その…私…」 「うん」 「私…私ね」 縋るようにして、彼女が告げた。 「あなたの子どもが欲しいのっ…」 ソフィアを愛するあまり、大事にしたくて、今日まで白い結婚でいたが。 「可愛いソフィアの頼みだ。ソフィアの願いなら、なんでも叶えよう」 歓喜して飛び込んできたソフィアを抱きしめて、モンテーニュ伯爵は幸福を噛み締める。 金はあっても絶対に手に入らなかったもの。それが今は腕の中にある。それがこれから更に増えていく。 「最初は女の子がいいわ。その次は男の子。出来れば3人産みたいわ」 「ボクはもっと多くてもいい」 「うふふ。じゃあ病院に産婆院を併設できる?」 「いいとも」 「子どもも学校に通わせてもいいかしら?お友達を作って欲しいの」 「もちろん」 将来の話をしながら、夫人のおねだりは留まる所を知らない。 それでも。どれほど時間がかかっても。 モンテーニュ伯爵は、夫人の可愛いおねだりを、これからも叶え続ける。
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