抱きたい夜と、接吻されたい朝がある

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繋いだ手がじんわり汗ばむ。 少し前を歩く妻が、前方を指さして言った。 「あったよ、お手洗い!混んでるかなあ、行こう、カズ君」 それまで繋いでいた手が自然にほどけて、息子の手は自分の代わりに妻に繋がれた。 「ほら、荷物」 「ありがと。行ってくるね」 自宅から車で2時間程度のところにある、できたばかりのアウトレットモール。左手には買い物した店の紙袋数個。右手には妻のバッグと息子のリュックを持ち、メインストリートの真ん中にあるベンチにたまたま空いているスペースを見つけ、俺は腰を下ろした。こんなに広い商業施設で、喫煙スペースがはずれの方に1つだけしかないことに驚いた。これでは妻に内緒で一服してから戻ってくるのではとても間に合わない。どんどん愛煙家に厳しい世の中になっていくものだ、と軽くため息をつく。 人混みだらけのイートインスペースで食べた食事もまあまあだった。せっかく来たのだし、自分も何か新しい服でも、と思い、妻のバッグに入っているはずのガイドマップを見ようと右手に手を伸ばした瞬間、手がぶつかり、隣に座っていた人に向かって妻のバッグが倒れた。 「あ、ごめんなさい・・・」 関西訛りの残るイントネーションで謝罪をし、相手の顔を見ると、その人は目を真ん丸に見開いた顔でこちらを見ていた。 「雫稀(しずき)・・・?」 「・・・海惺(かいせい)」 変わらない自分を呼ぶ声に、5年前の記憶が呼び起された。 いや、嘘だ。忘れたことなんてない。必死に思い出そうとしなかっただけで、こいつは俺の中に、ずっとずっと住み続けていた。 「親睦会っすか?」 「そうそう。やったことなかったし、だいぶバイト生も増えたしさ。参加するでしょ?」 「まあ、します、けど」 都内でカフェのバイトを始めて1年。授業が早く終わった日と大学の休みの日だけのシフトだが、仕事もだいぶ慣れた。自分がカフェ、なんてキャラじゃないのは重々承知だが、家との中間距離にあって通いが楽なのと、オフィス街にあるからか、前にバイトしていた居酒屋に比べてやっかいな客がいないことが気に入ったのと、単純に時給が良かったからだ。制服もアースカラーの無地のエプロンさえ付ければ、中は自由だと聞いた。ただ、おのずと店の雰囲気に合わせて原色カラーは避けるようになっていた。結果ありふれたカフェの制服っぽくなったが、もともと服に興味があるわけでもオシャレをしたいわけでもない自分にはちょうど良かったのだ。 スタッフは40代の店長と40代のベテランのパートの先輩。先月入った30代の主婦のパートさんに大学生が自分以外に3人。まあまあ繁盛している店で、たまに知らないインスタグラマーたちがちょこちょこ自分のSNSに投稿してくれている。今も「映え」という言葉が流行っているのかは知らないが、店長の趣味でギリシャ風に装飾、設計されている店内で、アイドルの写真のプラスチックの置物やら、似せぐるみとでもいうのか、小さなぬいぐるみを並べて写真を撮る女性たちが増えた。もちろん、オフィス街ということでサラリーマンたちが殺伐とした日常をふと忘れられるように、というコンセプトのもと、店内の椅子は店長のこだわりがつまっていてフカフカだ。 「で、いつっすか。親睦会」 「来週の金曜日。菅本さんが行きつけの居酒屋予約してくれたみたい」 菅本さんというのはベテランのパートの先輩。典型的な、というと失礼だが、平成初期を思い切り楽しんでた雰囲気がバリバリ出ている。そんな彼女が、正直言って俺は苦手だ。理由は後で分かると思う。
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