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Ⅰ
ほっかりとパールのように真っ白い満月が、星空に浮いている。
妖魔たちの暮らす広大な渓谷、そのブロックの一つにいきり立った崖のような三日月形の、露出した岩壁があり、今、私たちはその頂上に立っていた。
眼下には妖魔たち。思い思いにおめかしした彼らの手には様々なキャンドルの灯が揺れる。
ノームが口上を述べると、まずスピカが私のこめかみのあたりに自身の”魔法印”を書き入れる。書き入れられたそれはすぐに馴染んで見えなくなるという。私は魔語が書けないので、スピカの額にキスを送る。下から黄色い歓声が聞こえる。
振り返り、眼前の勾配を見つめる。スピカが身震いし、竜の姿に戻る。数度羽ばたき宙に浮く。ドレスを掴み私は走り出した。
踵のない白い靴はぐんぐんこの身の速度を上げる。風を受けはためくヴェールの後ろからスピカがゆっくり追ってくる。三日月のような勾配の端は反り返り。意を決し、速度をそのままに宙に飛んだ。
怖くはなかった。隣にきたスピカの蒼い爪を掴む。耐空、、、足を伸ばす。妖魔たちが息を飲む中、二人ほぼ同時に着地した。
惰走で駆け、尚つんのめった身体を蒼い爪が優しく受ける。しばしの沈黙ののち、歓声が響いた。
「おめでとう!」「成功だ成功だ!」「寸分違わないぜ」色とりどりの声たちに囲まれる。スピカは再びヒトの姿になり、私を抱きしめてくれる。加減を忘れた力強いハグが嬉しくて、清々しい気持ちで抱きしめ返した。
「よぉお二人さん! いい着地だったぜ」
「今日から新婚夫婦だな!」
近寄ってきたノームやドワーフたちは、真新しい服に尖った靴、頭や腕に宝石をつけていた。
「ふふ、ありがとう。おかげさまでこの夜を迎えられた」
「全くだ。どれだけお前さんの恋相談にのったと思ってる? 寧ろ実を結ばなかったらぶん殴ってたぞ!」
「今はその話はやめろよ!」
その言葉に覗き見たスピカの顔が赤い。すると「そうよそうよ」と耳敏く聞きつけたニンフたちが囲みにかかる。普段は裸体の身体に今夜は薄物を纏って幻想的だ。
「リズ、おめでとう! ここを選んでくれてありがとうね!」
「本当に素敵!」
「このお化粧わたしがやったのよ!」
きゃらきゃらと笑う彼女たちは、私たちよりもはしゃいでいるようだった。
「あんまり足踏みしているものだから心配してたのよ~~! いつまでもお客様と主様しているんですもの」
「こいつも奥手なんだもの。わたしたちが焚きつけようか? って相談してたこともあったね」
「そしたら何回目かのそんな相談しながら行った朝湯で一緒に温泉に入ってるんだもの! あっ結婚するわって……」
「お前らそろそろ黙れよ!」
とうとう怒ったスピカが彼女たちを追いかけまわす。そこに、「ハチミツちゃーん!」と入れ違いのようにハルピュイアイが飛びついてきた。今夜の彼女は真新しい綺麗なよだれかけ、橙のぴったりとしたワンピース、ぼさぼさの髪も編みこみヒマワリやペンタスを差していた。
「ここに残ってくえて嬉しいよー! またお月しゃまのパイ、作ってね!」
「ありがとうハーピィ、これからは毎年作りますよ!」
そこに今度は「リズ、おめでとうさん!」とホブゴブリンが手を振りながらやってきた。チョッキに半袖のシャツ、その上で揺れる不格好なネクタイが可笑しくて愛らしい。小脇に毛むくじゃらの何かを抱えている。
「お前さんがドラゴンの嫁か。良い着地だったぞ。今まで観たなかで2番目くらいだ」
それは真っ黒い小さなおばあさんだった。
「それは光栄です。一番の方はどなたでしたか?」
「ドラゴンんとこのヤギの夫婦だ」
ムロウさんメイさんだ。流石である。彼らは現在遠くでワインを配っていた。
「なあなあ、夫婦って子供ができるモンなんだろう? オンバ様は悪魔の産婆なんだ。何かあったら頼れよ」
そうホブゴブリンが、”オンバ様”を胸の前に掲げ持って言う。気が早すぎる。私は何とも言えない気持ちで頭を下げた。
「ひひ、こやつら、式はあげたりあげなかったりだが、お産だけはあたしを呼んでくれるからねえ。こんな老いぼれが頼られるんだ、まだまだ長生きするよ……あやつら夫婦のも楽しみにしてるんだがなぁ……」
こちらは声を潜められた。まさか子供ができないのか……と目を向けかける。
「深刻に受け止めるな。渓谷のみんな知ってることさ」
「あのヤギ夫婦、まだお互いをひとり占めしたいしされたいんだと」
二人がくつくつとこらえ笑いをする。きょとりとし、私も笑った。傍らのハルピュイアイだけが、何が何やらわからないといった顔をしていた。
――
と、いうのが5年前の妖魔式の結婚式だった。
二人の襲撃から1年、今日はノエルが晴れて言葉の栄誉魔法使いに就任して5日目であり、私にとって2度目の結婚式である。
「そっちもそっちで見たかったんだけど……」
私の髪を整える手は止めず、タバサがふてくされている。思わず笑うと、動かないで、と釘をさされた。
「やっぱり結婚式の次の日からって、結婚したな、夫婦だなって思うもの?」
「ふふ、……半々かな。今までと特に変わらない日常に照れくささが加わって、でも数日もすればやっぱり慣れて。またあの数日間が味わえると思うと至高だな。本当、遅くなってごめんね」
「ううん。今日に立ちあえて嬉しい」
リズミカルに動かしていたブラシを傍らに置いた手が、私のブロンドを掬う。
「ねえ、姉さん。あたし、姉さんは恋愛事が好きじゃないと思っていたんだ」
意外な言葉に思わず後ろを向きかけるとまたもや、動かないで、と声がかかる。
「そう見えていたの?」
「うん。みんなが恋の話をしている時の姉さんって、反応も相槌もするけれど、自分の話はしなかったから。将来本当にシスターになって、神様に一生を捧げるのだと勝手に思っていた」
「あはは! 考えなくもなかったけれどね。多分恋が怖かっただけで、恋自体が嫌いだったわけじゃないのよ? でもそれに気付いたのも渓谷に来てからなのだけれど」
「……スピカ竜って、姉さんにとって最初で最後の相手だったの?!」
やおら上げられた大声、よりも内容に、どきりと心臓が音を立てたよう。鏡の中の私が顔を赤らめるのを隠しきれなくて、いっそ笑った。「なんてことだ……」とタバサがひとりごちていることすら愉快に思えた。
終わったよ、と手が離れた。
ハーフアップのギブソンタック。やっぱりタバサは器用だ。褒めると恥ずかし気な、それでいて誇らしげな笑みが返ってくる。そんな彼女は王女様らしく上品な、王女様にしてはおとなしめな柔らかなドレスに身を包んでおり、薄手のマントをふわりと羽織っている。とても素敵だが、私は彼女の頭部を飾るそれに気が付いてしまう。
「あらタバサ、ラリエットがよじれている。今度はあなたが座って」
「え、いいわよ! 後で直すから」
そう言って後方に退く彼女を半ば捕まえるようにして鏡の前に座らせる。シトラス色の瞳がパチリと瞬き、はにかむように孤を描く。
「……ねえ、姉さん。スピカ竜だけど、あいつが姉さんを幸せにできるかは置いておいて、姉さんを大事にしてくれることは確かだと思うよ」
「まあ、あんなにバチバチしていたのに、どんな風の吹き回しなのかしら?」
「牙を交えた者の、勘よ」
鏡の中の彼女が不敵に笑う。
さあ出来上がり! と手を離すと、鏡の中のシトラスが消え、何越しでもないシトラスが私のアクアマリンとかち合う。
「姉さん。あたしと……あたしたちと出会ってくれてありがとう。幸せでいてね」
「ありがとう。あなたたちと出会えたこと、私の大切な宝物よ」
お互いドレスがよれないよう、軽く抱きしめ合った。
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