それぞれの轍

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 本来ならばこの機会は保護者面談なのだから、こんな話をするべきではなかった。  だけど俺は、その一線を踏み越えた。  なぜならば、育ての父と母には到底見出すことができない、自分と血を分けたものしかわからない面影を、彼女の中に見出してしまったからだ。  それは、朝。洗面台で顔を洗ってタオルで顔を拭いた時。鏡の向こうの自分と目が合うような感覚。  だから、口を滑らせてしまった。  すると、教室に入ってきてからずっとソワソワとしていた彼女が、わっと泣き出してしまった。  おそらく彼女は気づいていたのであろう。  年度初めの懇談会で、新卒者として紹介された時の名前の響きだったり、毎週末に配布する学級通信に記載している発行者名だったり。今、俺が首から下げている名札だったりに記された俺の名前に、自分が手放した息子の気配を。  息子が、亡くなった夫の姉に引き取られたのなら、苗字だって知っているはずだし、母との面識も、もちろんあったはずだ。  愛した男の苗字『(ふく)()』と、自分が付けたであろう名前『真希(まき)』の並びに、どんな心境を抱いたのだろう。    それにしても暑い。  窓の外では陽炎が揺れ、蝉時雨がさらなる熱波を呼ぶかのようだった。 「……暑いですよね。ちょっと冷房強めますね」  ワイシャツの袖で汗を拭いながら立ち上がって、彼女に目を落とさぬまま、開いている窓をはじから閉めていく。すると聞こえてきていた蝉の鳴き声が、窓をひとつ閉じるたびに聞こえなくなっていく。  窓を全て閉め終えたら廊下側の扉を全て閉めて、壁に設置されたエアコンのパネルを操作する。  28度設定で快適なんて、嘘だ。  温度設定ボタンを連打して、23度まで下げてやる。すると、蝉時雨のかわりにエアコンのモーターが唸りを上げ始めた。 「これでだいぶ快適になると思います」  言いながら椅子に腰を下ろすが、女性は冷房の冷えに弱いと聞いたことを思い出す。 「もし寒かったら遠慮なく言ってくださいね、温度あげますので」  すると、彼女の顔が上がり、ありがとうございますと声が聞こえた。  やはり、朝、顔を洗った後の俺の顔によく似ていると思った。
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