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猛烈な雨の中、俺は全速力で走っていた。傘はもちろん差していない。
昼間だというのに暗く重たい空、大粒の雨が俺の顔に容赦なく当たる。息が上がって開いた口にも入ってくる。
それが鬱陶しくて、俺は歯を食いしばった。
雨よ降れ。もっと降れ。顔が濡れたら流した涙は分からない。全身を濡らして、裡あるこの想いも全部、流してくれ。そう思って、走る足に力を込めた。
「くっそーおおおおお!」
大失態だ。俺は思い出して叫ぶ。
俺には好きなひとがいた。バイト先の先輩で、帰り際に一緒になったから、軽い気持ちで一緒に帰りませんか、と誘ったんだ。
その時はまだ雨は降っていなくて、傘持ってないから降らなきゃいいですね、なんて話して、結構いい感じに話せてたと思う。
浮き足立って調子に乗った俺は、そのまま世間話のついでにペロッと告白してしまったんだ。俺、恋愛って意味で先輩のこと好きなんですよね、と。
「え、マジ? 俺男なんだけど」
驚きと、嫌悪が混ざった先輩の顔を見てハッと気付いた。自分でもどうしていま、告白したんだろう、と。
「……」
先輩の反応も相まって、俺は狼狽えたまま黙っていると、先輩はこう言ったんだ。
「ってか、俺を狙ってるって噂、本当だったんだな。気持ち悪いよ、お前」
最後に俺を見た先輩の、睨みつけるような、蔑むような目が俺の動きを止め、その場から動けなくなっているうちに、先輩は行ってしまった。
それからだ、俺が猛烈に、黙っていればよかった、と後悔したのは。
噂をされているなんて知らなかった。そりゃあ、先輩がいると嬉しくて、自分でもはしゃいでいた自覚はある。けど、だけど……。
「あんな言い方はないだろ……っ」
バシャン! と水溜まりに足を踏み入れて、水が跳ねた。でももうすでにずぶ濡れだし、水が跳ねたってどうってことない。
「もっと雨降れ! こんちくしょう!」
目に入った雨粒──決して涙ではない、はず──が邪魔で、腕で目を拭った。苦しくて痛いこの胸の中を、雨が全部洗ってスッキリさせてくれないかな、とそう思った時。
「うわっ!」
マンホールの上で足を滑らせた俺は派手に転ぶ。直ぐに動けず倒れたまま、脈に合わせてジンジン痛む身体がムカついた。
「ちくしょう……!」
膝と胸と腕が痛い。色んなところが痛くて、じわりと涙が浮かぶ。痛む箇所が増えた、ちくしょう。
──情けない。ちょっと転んだからって泣くなんて。
道路にうずくまったまま、俺は嗚咽を堪えて泣いた。
もう、あの先輩の笑顔は見れないのだろうか? 少なくとも俺の前ではもう、見せてくれないだろう。好きなひとが、俺を見るたび汚いものを見るような目で見てくるかも、そう思うだけで声を上げて泣きたくなる。
すると、雨の音が微かに小さくなった。身体に当たる雨粒の感触もなくなって、何が起きたと顔を顰めながら上げる。
「大丈夫?」
そこには、傘を差した綺麗なお兄さんがいた。
「派手に転んだでしょ? 血が出てる」
お兄さんに指摘されて、俺は初めて腕が結構エグいことになっていると気付く。転んだ瞬間を見られ、見知らぬひとに心配されるのが恥ずかしくなって、その腕を後ろに隠した。
「あ、やっ、……大丈夫です!」
「……大丈夫そうには見えないけど……」
そう言うお兄さんは困ったような顔だ。多分お兄さんは俺の怪我のことを言ってるんだろうけど、今の俺にはその言葉が刺さってしまった。大丈夫そうには見えない。……うん、俺はいま、大丈夫じゃないんだ。
目から涙がボロボロと出てきて、慌ててその涙を拭うと、お兄さんは驚いたような顔をした。まずい、何とか誤魔化さないと。
「あ、あれ? ……ははっ、転んで泣くなんて子供みたいっすね……」
お兄さんの傘の下だから、目から落ちてるのは雨粒です、なんて誤魔化せなかった。そう、これは怪我が痛くて生理的に出てきた涙だ、うん。そうに違いない。そう思い込むことにする。
するとお兄さんはその場にしゃがんで、俺と目線を合わせてくる。優しげに細められた目と合いそうになって、俺は痛む腕を押さえて視線を逸らした。
「……そう。痛かったね」
よしよし、とお兄さんは傘を持った反対の手で、俺のずぶ濡れの頭を撫でる。子供扱いされてかあっと頬が熱くなった。そして俺をからかわなかったその優しさに、また泣けそうになる。
「身体が冷えちゃうし、手当てしてあげるからおいで」
濡れて滑る手を、お兄さんは躊躇いなく掴んで俺を立たせる。見ると、ズボンも膝が破れて血が滲んでいた。どうりで痛いはずだ。
すると、お兄さんは何かに気付いたように傘の外を覗く。
「ほら、雨が弱くなってきた。今のうちに」
「……はい」
俺は重たい心と痛む身体を引きずりながら、お兄さんと一緒に歩き出す。
傷心している今なら、通りすがりのこのお兄さんに少しだけ甘えてもいいかな、と。
[完]
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