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俺は訳が分からず渡辺先輩の顔を見ると、こちらに向ける目は真剣そのものだった。
「本当に気付いてなかったんだな。2年前、大会でお前をゴール前で転倒させたのは俺だよ。しかもあれは俺が意図的に転ばせたんだ。自分がゴールテープを切るために」
予想もしていない言葉に頭が追いつかない。あの時の人が……渡辺先輩の目は潤んでいた。
「フィジカルが弱いお前が悪い……俺は自分にそう言い聞かせて自分を正当化していた。だけどお前が、沢村が陸上を辞めたって聞いて、自分の悪意が誰かの将来を変えたと知って後悔したよ。だから、俺が沢村を復活させたかった。陸上の楽しさを思い出してほしかったんだ。だから、これ」
手渡されたノートには、俺向けの練習メニューが細かく書かれていた。目標タイムや練習のポイントまで。
「大橋は気付いていたよな。沢村を俺のところに連れてきてくれて感謝してる。だから、後は大橋に任せた。お前なら沢村のメンタルコントロールもしてくれると思う。頼んだぞ」
美帆は渡辺先輩の手を握ると、「全力で頑張ります」とだけ言った。
「お前、知ってて俺を連れてきたのか」
病院からの帰り道、美帆は俺の言葉に肯いた。
「大智はあの時ゴールした選手の名前知りたがらなかったよね。多分恨んじゃうからって。でも私は忘れなかった。今の渡辺先輩に会ってほしかったんだ。ごめんね、黙ってて」
知っていたら最初から拒否していたかもしれない。俺は「ありがと」とだけ言って学校へ戻った。
学校に戻るなり、美帆は俺をグラウンドへ連れて行く。
「じゃあ、ここにある練習メニューの通りやってくから。手加減しないよ」
美帆はやる気に満ち溢れていた。渡辺先輩の練習メニューは基本的に今までのものと変わらないけど、各メニューに目標タイムが設定されていて、それを下回りそうになると美帆の厳しい言葉が飛んでくる。
「あと3分で走りきれるの? ペース上げなさいよ」
「目標タイムから5秒オーバーしてる。もう1回」
「フォーム崩れてるよ。疲れてるときこそ意識して」
渡辺先輩以上のスパルタに心が折れそうになる。さらにキツかったのは追加された練習メニューだった。基本1人で走り込むことが多い中、後ろに短距離走の選手を従えての200m走を何度もやらされた。しかも自分は何回もやるのに一緒に走るメンバーは毎回違う。つまり毎回体力有り余る人たちが相手なのだ。
「大智は追われる立場になるとペースが上がりぎみになって、終盤ペース落ちて追いつかれやすくなるのと、フォームが崩れやすくなる。これはメンタルの弱さが出てる、って書いてある。後ろから追い上げられたときに自分の走りを出すための練習だから」
言われて気付いた。前に誰かがいるとそれが目標となって走れるけど、いざ自分が前に出ると自分との戦いが待っている。自分以外の全員から追いかけられている不安から思った走りが出来ていなかったのだ。
そうして大会までの日数を、美帆の容赦ないシゴキで過ごした。
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