君が帰るとき

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「どうしたんだい?」  十年ぶりに会った、我が家を訪ねてきた親友、ヨハンソンがソファに座りながら突然そう聞いてきた。  私としてはこの十年に何があったかを聞くほうを先にしたかったのだが、仕方がない。 「どうしたって、何のことだい?」 「君の息子さんだよ。さっきそこの廊下で『雨よ降れ、雨よ降れ』って、まるで祈りを捧げるようなポーズで連呼してたよ」 「ああ、そのことか」  私は天井を仰いだ。 「明日、学校で体育の運動テストがあるんだ。あの子は足が遅くてね。テストが中止になってほしくて、そう言っていたんだと思う」  ヨハンソンはそれを聞くと、まるで微笑ましいとでもいうように笑いだした。  私は少し不機嫌になって続けた。 「まあ、君のような運動神経抜群の男は、たとえ子供のときでもそんな願いは持たなかったろうね」  ヨハンソンは顔の前で手を振った。 「いやいや。実は僕も子供の頃、願ったんだ。雨よ降れってね」 「君が? 体育は得意なタイプだと思ったが」  私は少し眉をひそめた。 「子供の頃、クラスにジュリアンという少女がいたんだ。とても可愛いらしく、気立てもよかったからみんなに好かれていた。ただ少し身体が弱かったんだ。歩けないわけじゃなかったけど、移動は基本的に車椅子だった。だから登下校の時はいつも親が車で送っていた」 「ふむ」 「僕はといえば、彼女にとても興味はあったんだが、いかんせんどう近づいたらいいか分からなかった。いつも遠巻きに見ているだけだった。でもある時、彼女が誰もいない教室の隅で小声で呟いているのを聞いてしまったんだ。雨よ降れ、雨よ降れってね」 「ほう」 「最初、理由が分からなかった。君の息子さんのように体育の授業が嫌だったわけじゃない。だって彼女は晴れだろうと雨だろうと体育を見学してたからね。別にだからといって、クラスメイトたちからからかわれていたわけでもない。むしろみんな彼女のことは、ちょっと躰の弱いお姫様っていう感じで扱ってたぐらいだからね」  そこまで言ってヨハンソンはちらりと時計を見た。そしてまた話し始めた。 「しばらくしてある雨の日のことだった。かなりの豪雨だったこともあって、うちの親も含めたくさんの親が車で子供たちを迎えに来ていたんだ。もちろん、ジュリアンの家もいつものように迎えに来ていた。で、その時、僕はジュリアンの顔を見て気づいたんだ。これが狙いだったんじゃないかって」 「どういうことだい?」 「つまりさ、。みんなと同じでいたかったんだ。車で毎日、行き帰りの送迎をされるのも、周りからお姫様扱いされるのも本当は好きじゃなかったんだよ。雨が降れば、。それが分かってからは、僕もできるだけ雨が降ることを願うようにしたし、気軽に遊びに誘ったりするようにしたんだ」 「なるほどね」  毎日の通学時、みんなが自分の足でクラスメイトたちと楽しく会話しながら歩いているのを横目で見ながら、親に車で送ってもらうというのはなかなか気まずいことだったのかもしれない。たとえそこに悪意や中傷がなくても。  それを子供らしいと笑うのは簡単だが、子供にとって学校は社会そのもの。それも毎日となれば、かなりストレスだったことは十分考えられる。  子供のときは、人と違うこと、目立つことが恥ずかしく思えることがある。たとえそれが善意に裏打ちされていても。なんとなく気まずくなってしまうことがあるのだ。  大人になればむしろ、人と違うこと、目立つことはときに大切なことだと分かるのだが。  私は少し息子のことを考えていた。  あの子に、体育の授業のことで言ってやれることがあるかもしれない…… 「ところで、君の家に入るのに、階段を通らずに済む方法はないかい?」  突然ヨハンソンがそんなことを言い出した。 「どうしたんだい? 急に」 「実は君に僕の妻を紹介したくてね。もうすぐ到着する予定なんだ」  そう言うとなぜか、ヨハンソンは茶目っ気たっぷりの笑顔をみせた。                    fin
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