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1-1読まなくていいのに(前)
呼吸困難で搬送された女性からは特に注意すべき慢性疾患をうかがわせるものは見当たらず、首を捻っていた外科医の元へ年度始めに赴任してきたばかりの神経内科医がひょっこり現れて、そっと患者を覗き込む。
「ありゃまー。またかー。最近多いんです、呼吸を忘れちゃう人」
ぼんやりと眠そうな口調に、外科医は気楽なものだと睨みをきかせた。
しかし彼はどこ吹く風で、妙なことを口走る。
「空気ってねえ、読むものじゃなくて吸うものなんだけどなぁ。読むならマンガでしょ、電子書籍もたくさんあるし。ははは」
緊張に張り詰めた処置室の中であるにもかかわらず、神経内科医はおっとりした口調で言うと手をかざし、患者の目元に優しく乗せた。
「こういう方はね、人目があると気を遣って、大丈夫ですからと答えがちです。こうして視界をリセットさせて、優しい夜を見せてあげるの。あとは酸素吸入をして、優しく声掛けしてあげてねー。落ち着いたら、僕のほうで問診してもいいよね?じゃあ、内線で呼び出してください。仮眠に入るんで」
水分をすっかり失ったような、まるでとうもろこしのひげみたいなカサカサした、細くてうねった淡褐色の髪を無造作にサテン地でできたピンクのシュシュでまとめて、大きなあくびをした神経内科医は、ぽかんとする救急医やナースたちを横目に、さっさと背中を向けて、処置室を出て行ってしまった。
「えっと、あいつ、なにしに?」
「治療、ですよ、ねえ」
救急医たちがポカンとしていると、ナースが言う。
「あの、呼吸が安定してきました……」
「ええっ?」
彼らは一斉に、正常値を表示しているモニターへと、視線をうつした。
すうすうと寝息を立てている様子からするに、安心できる状態まで回復したと判断して差し支えない、と周囲の雰囲気も安堵に包まれていった。
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