降らせてみせよ、琵琶法師

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 翌年。普段通りに年月が過ぎていき、康成も杞憂だったかと気を抜き始めた頃、しかし、もう梅雨の頃だと言うのに雨が降らない日が続いていた。  「近頃は雨が降らぬな……」  忘れかけていた不安が康成の脳裏を過る。靖一が琵琶を弾いているのを横目に康成が呟いた時、遠くから武士の足音が近づいてくるのが聞こえた。彼らは靖一の前で立ち止まると、刀に手を添えたまま口を開いた。  「靖一とはお前だな?」  「左様にございます」  話しかけられた靖一が語りを止めて頭を垂れると、彼らは付いてくるようにと言った。靖一にそれを拒むことなどできるはずもない。言われるままに立ち上がる靖一に続いて康成も立ち上がった。  「我は靖一の親代わりにございます。付き添いの許可をいただきたく」  「……いいだろう」  嫌な予感がした康成は靖一に同行する許可を得ると共に武士たちに付いて行き、迎えの武士たちよりも上位階級だろう武士の家へ足を踏み入れた。康成は隅で待つよう言われ、靖一だけが庭の中心へ連れて行かれた。  「ふむ……」  上位階級の、恐らく当主の武士は靖一の頭から足先までを値踏みするように見て、それから昨年たまたま雨が降った龍と巫女の雨乞いの話をするよう命じた。康成は全身の血の気が引くのを感じた。  「雨を降らす力など持ってはおりませぬ……昨年の奇跡が噂になっているのであればあれはただの偶然にございます」  「どちらでも構わぬ。降らねばお前の首でも吊るしてみようではないか」  靖一も危機感を覚えてそう言うが、当主はそれを一笑に付した。この当主にとっては靖一が雨を降らせても降らせなくてもどちらでもいいのだ。靖一は背筋が凍った。しかし逃げることもできない。刀を持つ武士に囲まれているし、それでなくとも康成ほど京を知らない盲目の靖一にとって逃走は無理がある。  「っ……では、語らせていただきます」  頼む、降ってくれ。奇跡よ起きてくれ。そう願いながら靖一は龍と巫女の雨乞いの話を語り始めた。雨が降るかどうかなど、己でどうにかできることではない。語る声も琵琶を弾く手も震え、喉は渇き、冷や汗が背中を伝った。当主が余興でも眺めるように尊大な態度でこちらを見下ろしているのは、目の見えない靖一でもよくよくわかった。  「さあ……降らせてみせよ、琵琶法師」  (ここが我の最期の地か……)  靖一は懸命に祈りながら語ったが、ついぞ雨が降ることはなかった。当然だ、靖一にも語りの内容にもそのような力はない。当主が顎で靖一を示せば、そばにいた武士が刀を抜く。刀を構える音と同時に駆け寄る足音がした。  (雨よ……雨よ……どうか……)  ――ザシュッ。  刀が肉を断つ音がした。辺りに血の匂いが漂う。尻もちをついた靖一の指先にぬるりと液体が触れた。何も見えない靖一でも容易にわかる。いま目の前にあるのはよく知る背中だ。  「康、成……」  駆け寄った康成は靖一を引っ張って転がし、代わりに斬られたのだった。靖一は斬られて地に伏せた康成の体に覆い被さるように抱きしめ、幼子の如く声を上げて泣いた。  「康成、康成……!っ嫌だ、死ぬな!我を置いて逝かないでくれ!」  予想外の出来事に顔を見合わせていた武士たちは、しかしすぐに刀を構え直し、康成に縋り付いて泣き喚く靖一を斬ろうと刀を振り上げた。その瞬間、武士たちの頭に冷たいものが当たる。  ――ぽつ。ぽつぽつぽつ。  降り出した雨により許された靖一は、瀕死の康成と共に敷地の外へ放り出された。あっという間に本降りになった雨が、康成の血を流していく。もう声を出せない康成が最期の力を振り絞って靖一の頬を撫でる。  「生、きろ……」  ほとんど声にならなかった康成の最期の言葉は雨音に掻き消され、口の動きを見ることもできぬ靖一に届くことはなかった。  その後、雨は三日三晩ひと時も止むことなく降り続けた。靖一は本降りの雨のなか手作業で康成を埋葬し、逃げるように京を後にした。  靖一は南の端まで歩いては踵を返し北上して、生まれ故郷の北の端まで戻っていく。生涯をかけて伝承を語った彼の手には、最期まで康成の琵琶が握られていた――。
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