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My Father
俺の親父は、群馬県で生まれ育った。
毎年「記録的酷暑」の文字と共に、お約束のように汗だくの子ども達の姿がニュース映像で流れる、あの場所だ。
幼少の頃からうだる暑さに辟易していた親父は、いつかこの地を出ようと心に誓い、大学進学がチャンスと狙いを定めていたそうだ。まだ津軽海峡に海底トンネルが開通していなかった昭和の終わり、彼は本州最北の学府を目指し、見事桜を咲かせた。
ところが、日本の四季は甘くなかった。親父は冷涼で快適な夏を満喫したものの、冬の厳しさを分かっていなかった。一度低気圧がやってこようものなら、市内の交通機関はマヒするし、県内外の物流が止まり、商店の棚からは食品が消えた。停電なんかも当たり前で、暖房を失った室内は、氷の世界に急降下。何枚毛布を被っても全身の震えが止まらず、自分の呼気で睫毛が凍った。その上――
「ホワイトクリスマスがロマンチックなんて、どこのお気楽野郎の戯れ言だぁっ!」
1年生の12月。大学構内を移動中、うっかり雪道に足を取られ、気がつくと膝まで積雪に嵌まっていた。親父の脳内に、虚ろな目をした男達が現れて、ノロノロと移動していくのが見えた。“八甲田山”、死の行軍だ。
「助けてくださあぁい!!」
ホワイトアウトの中心で叫びながら、親父は確かに死を覚悟したという。運良く他の学生達に発見され、一命を取り留めたものの、この体験がトラウマになり「就職は南にしよう」と固く決意した。
就職上京計画の第一歩として、親父は2年生の春から動き始めた。東京の大手企業に就職したOBを探し、マメにコンタクトを取り、会社訪問を繰り返した。
折しも時代はバブル期の終焉、卒業の前年に日本の好景気は弾けた。就職超氷河期が到来し、新卒採用予定者の内定取消が続出する中、親父は辛くも就職浪人の憂き目を見ずに済んだ。早くから水面下でコツコツとパイプを築いてきたことが功を奏したらしい。親父は「吹雪のお蔭で、根回しの大切さを学んだ」としみじみ語る。
こうして手に入れた東京での暮らし。夏は蒸し暑く、冬は空っ風が肌を切る。そんな気候は、群馬育ちの親父には充分耐え得るものだったけれど、異常に高い人口密度――特に朝夕の満員電車での通勤が苦痛だった。以来、より快適な通勤を求めて、都内で引っ越しを繰り返した。
入社7年目の秋、親父は異動の内示を受けた。行き先は津軽海峡をひとっ飛び、北海道の札幌市だった。
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