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猫森邸
猫森家の邸宅は、さながら西洋の物語に登場するお城のような威厳と風格を持っていた。
邸宅の正面は石段が続き、その堂々たる外観は、世俗とは格が違うことを見せつけていた。
猫森家の当主、猫森万次郎氏は某財閥の中枢となる猫森物産の取締役を務め、華族界の中では異才の伯爵として名を馳せている一角の人物であるらしかった。
麻布の小高い丘の上に立つ、その邸宅の敷地は広く、邸宅の裏庭は知る人ぞ知る日本有数の薔薇園であった。
猫森万次郎氏の正妻は若くして亡くなったと聞いた。
僕が書生として住み込む時点で、猫森家の家族は、父である万次郎と、二人の息子、二人の娘がいた。
16歳の千世と14歳のわか、という二人の娘に、僕はピアノを教えることになっていた。
二人はまったく似ていなかった。
実の母親が、それぞれ違うのだという。
猫森家の家族の事情を、詳しく僕に語って聞かせてくれたのは、女性でありながら書生をしていた菖蒲ウララである。
ウララは当時、東京女医学校に通う学生で、僕が猫森邸に住み込む二年前から、娘たちの家庭教師として迎えられていた。
もう1人、Sassyというブロンドの髪と青い目が美しい英語の家庭教師がいた。
Sassyは流暢な日本語を話し、華道や茶道の嗜みと絵画や音楽など芸術的教養に秀でたフランス系のアメリカ人らしかった。
それまで二人の娘たちにピアノを教えてきたのはSassyだったが、娘たちのピアノの腕前が上達したので、より専門性の高い指導のできる書生を探していたという訳である。
猫森家の亀彦という長男は、非常に不気味な人物であった。
ヴィクトル・ユーゴーの「ノートルダムのせむし男」という作品に出てくる、せむし男のような人物で、身長は165センチ程とそれなりにあり、ガタイが大きく骨太であったが、どうやらせむしらしく、せむしでなければ、どれだけの大男であったか想像するだけで何かゾッとする風情を漂わせていた。
年齢不詳のせむし男、亀彦は、知恵遅れで満足に会話もできないという理由から、庭師の集団が住む離れに住んでおり、一日、庭師の手伝いをしているらしかった。
それでも夕食時には、たまに本宅の食卓へ姿を現し、コソコソと人と目を見合わせないようにしながら食事を済ませ、すぐ離れに戻ってしまうのだ。
鶴彦という次男はヒョロリと背の高い美男子で、すでに成人しており、万次郎氏の会社で後継者として仕事しているというが、これまたどことなく不気味な影のある腹の読めない男だった。
鶴彦は、研ぎ澄まされた剣のような気配を持ち、顔には常に美しい微笑をたたえながら、その実、冷酷な判断を下すのだとウララは語った。
長男の亀彦を、庭師たちの住む離れに押しやったのも鶴彦の判断で、他にも彼の判断で暇を出された使用人は数え切れないと言う。
さて、二人の娘たちだが。
千世は日本人離れした白い肌に大きな瞳を持つ美人で、良家の子女として高貴で聡明な淑女となる運命を甘受しているように見えた。
それに比して、わかは、健康的に日焼けした肌と引き締まった筋肉を持つ活発なモダンガールで、父は跳ねっ返りと揶揄しながらも、この娘の将来に期待しているらしかった。
東京女医学校に通うウララを家庭教師につけたのは、快活なわかの将来に何か頼もしい仕事のできる新時代の女性像を期待してのことなのだ。
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