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初レッスン
次の朝は日曜日だった。
二日酔いの僕は朝食を食べる気になれず、猫森家の広大な庭を散歩していた。
まだ薔薇の蔓は若葉が芽吹いたばかりで、名も知らぬ薄紫の小さな花がわずかに足元で揺れている。
「おはようございます。昨夜は男同士で何か楽しいお話できました?」
僕に声をかけてきたのはウララだった。
ウララとSassyは連れ立って、毎日のように朝の庭を散歩するのだという。
「お気をつけになって。ここだけの話。鶴彦様には男色の噂がありますのよ」
ウララは声を潜めて僕にそんなことを言う。
Sassyはクスクス笑いながら
「ウララさん。そんな忠告、余計なお世話かも知れませんことよ。令草さんが、誰と仲良くしようが自由じゃありませんか」
などと言って、庭の池に浮かぶ睡蓮の葉の上にいる小さな蛙を見やった。
Sassyは続けて独り言のように、こんなことを語る。
「親指姫が蛙に連れ去られてしまった時は、不幸の始まりだと思ったけれど、結果的に、それは幸福への第一歩だった。何が幸福への第一歩になるか、それは誰にもわからない。もちろん、不幸の始まりだって、誰にもわかりはしない。だから人生は面白い」
ウララは少し表情をこわばらせて僕に、言い訳めいた解説をした。
「Sassyは詩人なんです。彼女のつぶやきは、退屈なお嬢様たちを喜ばせるには役立ちますが、具体的に物事を進める上では、霧のように行手を阻むこともあります。どうか寛大な気持ちで聞き流して下さいますよう」
僕は、母以外の女性と話をしたことが、ほとんどなかったため、若い彼女たちの言葉は、遠い国の物語の中に出てくる台詞のように感じた。
豪邸も、広い庭も、そこに住む人々も、まるで現実のものという気がしなくて、僕は気の利いた返事もできず、おどおどしていただろう。
「令草。毒蜘蛛に食われるぞ!」
誰かが高い窓から僕に向かって叫んでいる。見上げると鶴彦が、三階の窓から笑顔で手を振っている。
「おはようございます。昨夜はいろいろありがとうございました」
僕が鶴彦にそう答えると、Sassyは鶴彦に向かって大声で
「Go away! evil spirit」(悪霊退散)
と叫んだ。
「おやめなさい。Sassy」
ウララはSassyの上着の裾を引っ張って、強い口調で嗜めた。
「向こうが、あんな朝の挨拶をしてくるから、こちらも同じように挨拶しただけよ」
Sassyは爽やかに微笑んで、池のほとりをパタパタと駆けて庭木の向こうへ姿を消してしまった。
ウララはため息をつき、それから少し改まった調子で、こんな話をした。
「彼女はお嬢様たちより、心配の種ですわ。あの、この屋敷に先に来ている書生の先輩として、一つだけ初めに忠告しておきますわ。若い男性が猫森家の書生となって同じ屋根の下で暮らすのは、お嬢様たちにとって初めての体験です。万が一にも、お嬢様たちと何かあれば、また、現実には何もなくとも、お嬢様たちの心を奪うだけで、恐らく命の保証はございません。鶴彦さんは、人一人消すための手段を無数に準備しているはずです。そこのところだけ、余程、お気をつけなさいますよう」
「ありがとうございます。気を引き締めて参ります」
僕は、猫森家での生活のすべてに不安を感じた。内心、今すぐにでも北海道に逃げ帰りたい気持ちさえあった。
けれど、せっかく念願の東京音楽学校に通い始めたばかりで、尻尾を巻いて逃げ帰る訳にはいかない。強い気持ちで、コツコツと頑張るしかない。
その日、初めての千世とのレッスンは午前10時から1時間。
日当たりの良い南向きの庭に面したピアノ室で行われることになった。
猫森家には何台ものピアノが、至る所に設置されており、お嬢様たちの気分次第でレッスンの場所が指定される。
少し早めにそこへ向かうと、千世の奏でるピアノの音色が聞こえてきた。
ショパンのワルツ『華麗なる大円舞曲』だ。
僕は静かに壁の陰に隠れて、しばらく聞き耳を立てていた。
ピアノというものは演奏者の心を如実に反映する。
その日の千世の演奏は明るく希望に満ち溢れた豊かな演奏だった。
「素晴らしい!」
曲が終わった時、パチパチと拍手しながら僕は千世に近づいた。
「まあ令草さん。聞いていらしたの?」
千世は真っ白な頬をほんのり赤く染めた。
瑞々しい少女の爽やかな恥じらいに、僕の胸は密かに波打ったけれど、心を鬼にして淡々と接した。
「曲の持つ雰囲気を上手に捉えて堂々と演奏できていました。ただ欲を言えば、もっと音の強弱の差を出したい。この辺りの弱い音を、どこまで弱く美しく弾けるか、少し練習してみましょう」
千世は真剣に僕の眼を見て話を聞いていた。
「僕の手首と指の使い方をよく見て。いいですか。手首が硬く固定されると均一にきれいな弱さを保てない。一音だけなら指先だけで弱く調整できるかも知れないが。気持ちとしては腕から下がクラゲになった気持ちになろう。クラゲの触手のように柔らかく弱く滑らかな動きを思い描いて鍵盤を舐めるイメージだ」
千世は白くほっそりとした腕を、空でクラゲのようにふわふわさせながら
「ふふふ・・ああ・・何となくイメージできますわ」
と楽しそうにした。
僕も楽しかった。
楽しいだけではなく千世の艶めかしい肢体の動きは僕を少なからず悩ませた。
何しろ僕は少女という生き物に慣れていなかった。そればかりではなく、札幌の街の中ですれ違う田舎娘たちは千世とは比べものにならなかった。
田舎娘が雑種犬だとすれば、千世は真っ白なマルチーズのようなもので、そもそも血統が違うということを体現していた。全身から高貴な香りが漂い、麗しい輝きが満ち溢れているのだ。
ピアノのレッスンの時間はあっという間に過ぎ去る。
「最後に、令草さんの演奏も何か聞かせて下さい」
笑顔の千世にせがまれ、僕は明るい部屋に似合うショパンの『小犬のワルツ』を弾いた。
腕をクラゲにしたり小犬にしたりして鍵盤を走らせながら。
「ああ、なんて素敵なんでしょう。これからピアノの練習がますます楽しみになりましたわ」
千世はそう言って、兄からことづてのあったファリァの『スペイン舞曲』の楽譜を貸してくれた。
「千世さん。本当はこの曲、弾きたかったのじゃありませんか?」
「いえいえ。私、兄のヴァイオリンと合わせるのは、できれば遠慮したいのです。今までは仕方なく引き受けてましたが、令草さんが弾いて下さるなら、もう二度と兄の伴奏は致しません」
「どうして?何か訳でもあるんですか?」
「ありますとも。私、兄が嫌いなんです。嫌いという以上に、怖いんです。薄気味悪くて、思い出すだけでも背筋がゾーッとしますわ」
「そんなにですか。小さな頃からいっしょに遊んだりなさらなかったのですか?」
「遊んだわ。そして、だからこそ、兄がどんなに恐ろしい悪魔か、体が知っている。兄と同じ血が半分でも私に流れていると思うだけで、自分自身さえ嫌いになってしまいそう・・」
青ざめた顔で唇を震わせながら、千世はそう語りながら瞳に涙さえ滲ませていた。
「そうでしたか。わかりました。お気持ちを教えて下さり、ありがとうございました」
僕は立場をわきまえ、それ以上の言葉は継げなかった。
僕は雑種犬なのだ。
頭の中で自分は薄汚れた雑種犬であることをイメージしていた。山奥から這い出て来た薄汚れた雑種犬が、都会のお城で育った血統書付きのマルチーズ犬の近くをウロウロしているのだ。
危険だ!
誰が考えても、それは恐ろしく危険な状況で、ある意味、奇跡的な遭遇とも言える。
ピアノは頑張れば上手くなれる。
だが血筋や家柄や素性というものは、何をどう頑張ったところで死ぬまで変えられない。
雑種犬はマルチーズ犬の護衛をするために都会へ送られて来たのだ。
そこまで考え、僕は、空手か何かを習おうかと思い立った。
とにかく何かしらの方法で体を鍛え、お嬢様たちの身の安全を確実にお守りしなければならない。
昨夜、万次郎氏と妖しくも契約を交わした我が身の使命を、しっかり果たしたいと、その時は素直に、心からそう思った。
千世さんの真っ白な薔薇のような命。
その可憐な命を守るために僕が選ばれたのだと思えば、責任は重いけれど、実にやりがいのある大切な仕事を任された気持ちだったのだ。
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