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中学3年生の夏
私は雨上がりの坂を上っていた。
夏の暑さと雨の湿気で顔が汗ばむ。私は制服のポケットからハンカチを出して汗を拭った。
チリン、と後ろから自転車のベルが聞こえて、私は道の端によけた。
「よお」
「わっ!」
それは親しみのある声のはずなのに私は驚いた。ほら、振り向くと渉が笑っている。
「なんでそんなに驚くの」
「だって」
それは、中学に入ってからあまり話をしていなかったからだ。小学校からミニバスをしていた渉は、ぐんぐん背が伸びてスポーツ万能になっていた。中学で初めて渉に出会った女子たちは、渉君ってかっこいいね、と軽く言っていたけれど私には言えなかった。かっこいい、やさしい。私が渉について話す言葉には、全部私の気持ちがこもってしまう。
私は用心していた。渉にこの気持ちを知られないように。渉は私とは違う、もし知られたら今までのように一緒にはいられなくなる。
そして私と渉の距離は少しずつ広がっていて、どちらにしてもこのままはなれてしまうのかな、なんて思っていた。夏菜のばか、どうして私の気持ちだけが変わってしまったのだろう。
だから、渉に声をかけられて、うれしくて、つい、心臓がはねあがってしまった。
「夏菜、今日は歩きなんだ」
渉が自転車を下りて、私と一緒に歩き出した。久しぶりに名前で呼ばれた。ドキドキする。
「今朝、雨だったでしょう? 親に車で送ってもらっちゃったから、帰りは歩き」
どうしよう、緊張しすぎて言葉が続かない。私は坂道の先を見た。
少し急な住宅街の坂道は、まっすぐ山の中へと続いていく。夏でも樹々が鬱蒼と茂ってほの暗く、夏の日差しでほてった身体を冷ますのにちょうどいい風がふいている。顔も頭も暑くなった私はまっすぐ森へ向かって歩いていきたい気持ちだったけれど、そうすると自分の家を通り過ぎて渉と歩いていかなければならないのでやめた。
「夏菜だから言うけどさ、おれ今すっごく勉強やる気になってんだよね」
渉が楽しそうに話した。夏菜だから、なんて言うな。
「どうして?」
私はハンカチで口元の汗を拭うふりをして、にやけた顔を半分隠した。
「拓也先輩が北高に行ってるんだけどさ、おれも北高に行って、拓也さんとバスケ続けたいと思って」
「そうなんだ」
私は渉と拓也先輩がバスケをしているところをぼんやり想像した。拓也先輩とやらの顔は知らないのでへのへのもへじだ。渉は想像の中でかっこよくドリブルし、シュートを決めた。高校が離れたら今までみたいに渉と会えなくなってしまう。私は渉がいない学校生活を想像できなかった。
「いいよね、北高ここから近いし……私も行こうかな」
「本当に?」
渉は驚いた顔で私を見た。そして、
「じゃ、真剣にやらないとな」
とつぶやいた。
それを聞いて、私も驚いて渉を見た。でも渉はすぐに前を向いて、
「あちーなー」
と大げさに言って話を変えてしまった。
「じゃあ、うちで麦茶飲んでく?」
子どものころ、一緒にこの坂道を上っていつも別れ際に言っていた、懐かしい言葉。
「ばーか、行かねえよ」
渉が笑って、私も心から笑った。そして私たちは小さくバイバイ、と言って別れた。
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