門扉の尋問

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門扉の尋問

   仄暗い雲が幾重にも重なり辺りいっぱいに広がっている。多少の濃淡はあれど、見渡す限り雲、雲、雲。灰色とも青白いとも言えぬ雲だけがある異質な世界。  その場に座り込んだまま、ただ辺りを見回し途方に暮れている娘が一人。そしてその娘の前に一人の老人が現れた。 「ようこそ。門扉の空へ。何も心配しなくてよい。ここで少し今世の話を聞かせてもらいたいのじゃ。そなたの“これから”についてはその後で一緒に考えるとしよう。」 老人は仙人のような白い衣をまとい、深い紺色の革の表紙が付いた一尺はある大きな書のような物を抱えている。左肩にかけた革の帯には、羽根筆が付いている。老人は穏やかに微笑んで娘の目の前に立っている。 「あの・・・ここは? 門扉の空とは一体、何処なのです? 私は川で、そう・・・お屋敷の皆と川で、厳寒の習いをしていたのに・・・」 戸惑いながら話す娘に、老人は優しく手を差し伸べ娘を起こし雲で出来た大きめの椅子に案内した。娘は手を引かれるままに、恐る恐る雲の椅子に腰かけた。 「では、話して聞かせよう。娘さん、ここは門扉の空と云って下界の人々が死後に来る場所じゃ。門扉と云う場所は他にもう一つあって、そちらは門扉の底と呼ばれておる。 今世において何らかの道理に背いた行いや、過ちを重ねた者が招かれる場所じゃ。  この門扉の空へは、それ以外の人々がやって来る。従って、今この門扉の空にいるという事はそなたの今世は終わったということ。死を迎えてここへたどり着いたということじゃよ。分かるかな。私はここで人々の話を聞きやり残しや課題を見つけ、来世の希望を聞き書を作成する役目をしている聖者。よろしく。」 聖者は丁寧に説明した。 「では・・・ 私はあの川で死んでしまったということですね。この見慣れぬ衣は・・・」 「あぁ、そういうことじゃ。その仄暗い空色の衣は、今世と来世を繋ぐ門扉の空で過ごすための衣。皆それを着る。ここに居る事を受け入れがたいのであれば、今そなたの死の様子を見る事も出来るがどうするかね?」 娘は戸惑っている。いま自分がここに居ることは受け入れがたい。けれど、本当に死んでしまったのなら、その場面を見るなんて耐えられるかどうか。そんな思いがぐるぐると胸の内を巡り戸惑っている様子。 「見ても見なくてもどちらでもよいのじゃよ。ここへ来てしまった事実は変わらない。これから話を聞かせてもらう中で、少し落ち着いてから改めて確認してもよい。どうするかね?」 娘の戸惑いを汲んで聖者は提案した。 「えぇ、お話は分かりました。では、もう少し後で必要だと感じたら確認させてください。」 娘は少し落ち着きを取り戻し、答えた。 「よかろう。ではこれから尋問を始める。よいかな?」 「はっ・・・ はい。」 「なに、難しく構えることはない。今世を振り返る想い出話だと思えばよい。難しい事を聞くわけでもない。まずは、そなたの今世に起きた事について聞かせてもらうだけじゃ。」 そう云って聖者も娘の斜め向かいに腰かけると、抱えていた大きな書を広げ肩の羽根筆を抜き話を聞く準備を整えた。娘も座り直し、聖者の話に答える心積もりをした。  聖者は一つ大きく息を吸って吐き出すと、話し始めた。 「して、今世はいかがでしたか? まだ23歳と若くしてこちらへ参ったな。」 「特に何ということも・・・ ただ、後一年でお屋敷下がりだったので少し残念な気もしますが、お屋敷を出ても行くところがありませんでした。だからこれでも善かったのかと思っております。」 娘は自分の気持ちを想い出しながら答えた。 「ほう。特に何も? 何か嬉しかった事や大きな想い出など、心に強く残っている事はないのですか?」 「あぁ・・・ はい・・・ 特にこれと言って才能もありませんでしたし美人という訳でもありませんでした。心に残る事と云われましても・・・ あまり心の事はよく分からないのです。」 「おやおや。それはまた・・・ 何か一つくらい、嬉しかったとか悲しかったとか身の内が揺れ胸が震えるような事を覚えておりませんか?」 「えっと・・・ あっ、祖母が・・・ 私を育ててくれた祖母が亡くなった時は、とてもドキドキしました。身の内がぎゅーっと掴まれたように苦しく、どうしてよいか分からなくなり震えていました。」 「うむ。それは心細い悲しい、という心じゃな。」 「はぁ、そうなのですね。私は祖母と朝霧(チェンウゥ)村で二人で暮らしていました。父と母は村を出て都へ行き働いていたので、時々しか村には帰って来ませんでした。だから私は、父母と暮らした想い出がほとんどありません。ずっと祖母と二人でした。  それで祖母が亡くなったので、私も村を出て都へ行く事になり大原(ダァユエン)のお屋敷で奉公する事になったのです。」 娘は時々、言葉が途切れながらもぽつぽつとしっかり話した。 「ほうほう。なるほど。では、その奉公先のお屋敷ではどうであった?」 「はい。お屋敷では、たくさんの若い娘や男が働いていました。その中で特に親しかった者もおりませんでしたし、これと言って・・・ あっ、一度だけ奥様が“字が美しい”と褒めてくださった事がありました。その時は胸がポッと温かくなって自然に笑っている自分に気付きました。それからは、ちょっとした小間使いの文などは頼まれる事があって、奥様にはよくして頂きました。」 そう話す娘の顔も心なしかポッと花が咲いたように見えた。 「ほうほう。善かったではないか。それは嬉しいという心じゃよ。して、他にはどうじゃ? 年頃であったのだから、想い人などはおらなかったのか?」 「想い人? そんな方はおりませんでした。そもそも想うという事がよく分かりませんでした。祖母にはいつも、“目立たず抜きん出ず、落ち着いて丁寧に人様に迷惑をかけずに”と云われて育ちましたので、その様に心がけて奉公しておりました。」 「なるほど。お祖母さんは、慎ましく厳しい方だったのじゃな。そうは言っても、若い娘も多く働く大きなお屋敷とあれば想い人についての浮いた話もあった事だろうに。」 「はぁ、他の侍女たちは他家の若様がお屋敷に見える度に、どこそこの若様が素敵だとか、あちらの若様は出世なさってとか、よく噂をしておりました。少しでもお近付きになりたい様子で・・・ お茶出しの役目を争うようにしておりました。ですが奥様は大抵その役目を私にお命じになりました。“素生(スション)は、”あっ、私の名が素生なのですが、“素生は落ち着きがあって丁寧だから”と。ですからいつも私がお茶出しを。でも、それで何ということも・・・」 「ほう。ではお屋敷の奥様には、とても気に入られていたのじゃな。何よりではないか。奉公先で気に入られ信頼されるというのも一つの立派な才能であるぞ。」 「えぇ。有り難い事でした。奥様にはとてもよくして頂き、感謝しております。  ですが、その感謝もきちんとお伝えできず年季も残したまま急に命が尽きてしまい、かえってご迷惑をおかけしてしまいました。これでは亡き祖母に合わせる顔もございません。」 「おやおや。急な心の臓の発作で死んだとあるが、何があったのかな?」 聖者は心配そうな顔つきになり、素生を注意深く見つめた。
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