素生の最期

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素生の最期

「はい。都の風習で厳寒の習いと称して大寒の折に清流で洗った箸で一緒に清めた野菜や金柑を食べると無病息災、財が流れて来ると云われておりまして、屋敷の侍女二人と近くの七瀬(チィライ)川へ箸と野菜を洗いに行ったのです。  その時、侍女の一人が手をすべらせ金柑を流してしまい“金柑を流してしまうのは縁起が悪い。お屋敷の財が流れてしまうから早く拾って来て”と私を川の中へ突き飛ばしたのです。不意の事だったので私は転んで川に突っ伏してしまい・・・ あまりの水の冷たさに心の臓が驚いて止まってしまったのですね。」 「なんと。そのようないきさつで・・・ ここにはその後、その身を川岸に上げられお屋敷まで運ばれたとある。川が浅かったのが幸いであったな。だが残念じゃな。此度の事故は、侍女たちの嫉妬が元で起きた人災じゃ。素生よ。そなたはどうやら嫉妬を抱かれていたようじゃのう。嫉妬は、相手側の心の内の問題だからのう。なかなかに厄介な事じゃ。」 聖者は素生を気遣って言った。 「此度の事は、嫉妬という心が元なのですね。その心も、私にはよく分かりません。そのようないきさつで、死を迎えここに参っているのでございますね。」 「うむ。これからゆっくり話を聞き、まずは今世からの課題を見つけこの門扉の空での課題を終えたあと、来世についての希望を聞き来世へと向かってもらおう。」 「課題でございますか? ここに来た者は皆、その様に致すのですか?」 「いいや、人それぞれじゃ。この門扉の空で長い眠りに就いて魂を休ませる者もいれば、課題に取り組む者もおる。今世で得た宝を貯蔵したり話して聞かせる役目に就く者もおる。素生よ、そなたはまたすぐに来世へ行ってもらう。その為にまず、課題に取り組んでもらうのだよ。」 門扉の聖者は座り直し、広げた大きな書に書き留める準備を始めた。その様子を素生はじっと見つめている。 「さて、素生よ。何か今世での後悔はあるかな?」 聖者は筆を持ち素生に尋ねた。 「後悔と云われましても・・・ 幼い頃から祖母に“一つ一つ丁寧に悔いを残さぬようにやり終えなさい”と云われて育ったものですから、特には何も。  そもそも何か大きな夢なども抱きませんでしたし、ただじっと、日々を淡々と丁寧に過ごして参りました。」 「ふむ。そうか。想い人もおらなかった。そもそも想うということもよく分からぬと申していたな。」 「はい。その通りでございます。先程から私が今世の事を話す度に、聖者様が仰った心の様子についても正直なところよく分からないのです。自分にそのような心が起きたことがあったのかどうか・・・」 そう言ってうつむいた素生を前に、聖者の顔は光りが差したように輝いた。 「ならば素生よ。先ずはこの門扉の空で心を見つけてみよ。それがそなたの来世への課題じゃ。先程の話にあった嬉しい心と切ない心、嫉妬と想う心の4つ。それと、そなたが少し感じた事のある恐怖の心を加えた5つの心を知るのじゃ。」 「分かりました。その課題が終われば、この門扉の空から出られるのですね。その時、祖母にも会えますか?」 「あぁ、会える。課題を終え来世へ旅立つ前には、お祖母さんに会わせてやろう。」 聖者は書き留めた書を閉じ、素生の手を引くと一つの大きな仮面の前に連れて行った。 「これは何ですか?」 「これは【嬉しい心の仮面】じゃ。この仮面をつけ、先ずそなたには嬉しい心を知ってもらう。仮面に導かれるままに舞うがよい。」 聖者は大きな仮面を取り素生の顔に付けた。すると素生の衣が淡い桜色と菜花の色に変わり華やかな装いになった。 素生の手は軽やかに天を揺らし、脚は飛び跳ねるように雲を蹴った。くるくると回り飛び跳ね、蝶のように素生は舞っている。辺りは清らかな箏や笙の音が響いている。その音に紛れて小さな笑い声が聞こえてくる。素生の声だ。素生が笑っている。笑いながら軽やかに舞っている。その舞いは一刻の間止むことはなかった。  そして素生の笑い声が止むと、箏と笙の音も止み、素生は雲の上に倒れ込んだ。聖者はそっと素生から仮面を外してやり、傍らに寄り添った。 しばらくして素生の呼吸が穏やかになり、衣の色が元の仄暗い空色に戻った時、聖者が声をかけた。 「素生よ。素生よ。どうであった? 嬉しい心の舞いは?」 聖者の声に目を開けた素生は体を起こし、まだぼんやりしている頭で言葉を探している。 「はい・・・ 不思議な感じでした。なんだかとても体が軽くなって、手や脚が勝手にひらひらと動き出して、いつの間にか笑っていました。  幼い頃、村の小川のそばで遊んでいた時のことを思い出しました。いつの間にか、あの小川にいる様に風を感じ草花の匂いもしたような・・・ 身も心もとても明るく軽やかになって・・・ 蝶を追いかけていたんです。そうしていたら、自分の笑い声に驚いて。でも、その声を聞いていたらとても胸が温かくなって、もっと笑わずにはいられませんでした。」 「おうおう。そうか。それが楽しい、嬉しいという心じゃ。よく覚えておくとよい。さぁ、次はこれをよく見ておくれ。」 聖者は素生に【嫉妬の仮面】を渡した。
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