素生の来世

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素生の来世

そして聖者は、素生の手から嫉妬の仮面を取ると明るい声で言った。 「さて、次からは少し楽しい話をしようじゃないか。楽しいは、もう分かるね。」 「はい。さっきの仮面。嬉しい心と同じ仲間ですね。」 「うむ。そうじゃ。これから、そなたの来世の話をしようじゃないか。次の世でやりたい事はあるかい? これだけは嫌だという事でもよいぞ。」 素生はうつむいて少し考えた後、ぼそぼそと話しだした。 「もう、嫉妬の果てに死ぬのは嫌です。できるなら祖母のように天寿を全うして年老いてから安らかに死にたいです。」 「はっはっはっ。なるほど。最期の場面に悔いがあるのじゃな。よし分かった。ではまず、それを書き留めておこう。最期の時は、何歳くらいの事かね?」 「うーん、そうですね・・・ お祖母様は70歳だったから、そのくらいまでは生きたいです。」 聖者は、広げた書にさらさらと書き留めている。 「では次じゃ。他にどんなことがしたいかな? どんな名で、どんな家に、どんな人になりたいか? 申してみよ。」 少し楽し気な顔で優しく素生に聞いた。 「そう言われても・・・ そう言われても・・・」 「何でもよいのじゃ。浮かんだままに申してみよ。」 「はい・・・」 素生は顔を上げ、天を見上げながら少しのあいだ想いを巡らした。聖者はじっと待った。 「やはり女に生まれたいです。そして今度は、もう少し華やかに生きてみたい。友達も欲しい。父や母とも暮らしてみたい。そうだわ、名は花蝶(ホァディエ)がいい。そして今よりも少しでいいから美人がいい。」 素生の顔は次第に明るくなり笑みがこぼれている。 「ほっほっほっ。あるではないか。そなたにも希望や夢があるではないか。よいぞ。そのまま、思いつくままに申してみよ。しかと記してやるでな。」 「はい・・・ お家は、日々の暮らしに困らないくらいでいいから豊かな家に生まれたいな。あっ、何か商売をしている家がいいわ。いつも賑やかだから。一人ぼっちになる事はないわ。それから・・・」 「それから? 何かやってみたい事はないのかい? どんな才で生きてみたいとか。」 聖者も楽しそうに書き留めている。 「それから・・・ そうね・・・ お屋敷に奉公に上がった時、奥様にお茶を淹れるのが上手だと褒められたことがあったの。その時の奥様は、とても喜んでいたわ。だから私にお茶の才があれば、多くの人にお茶を差し上げて喜んでもらうことが出来るかも。それがいいわ。多くの人に美味しいお茶をお出ししたい。」 素生の顔も笑みで溢れている。 「ほうほう。よいではないか。よいではないか。そなたの才は、茶を淹れるのが上手な才だな。そうしてその茶を多くの人に飲んでもらうと。」 「えぇ、そうです。それがいいと思います。」 「おうおう。随分と浮かんだではないか。優秀、優秀。よいぞ、素生。  ではこれから、ここに記したそなたの来世の書を見せよう。この仮面を付けるがよい。」 聖者は美しい女性の仮面を素生に手渡した。 「まぁ、美しい面差し。素敵だわ。」 素生が仮面を顔に当てると、仮面は素生の顔に貼り付いた。    仮面を付けた素生の周りには、見た事がない光景が広がった。庭を流れる小さな川沿いに設けられた幾つもの卓や椅子に人々が集まっている。箏の音や笛の音も聞こえている。人々が集まる輪の中には、小さな赤ん坊を抱いた若い女とその赤ん坊を優しく見つめる若い男がいた。 (素生よ、見えるかい? あの赤ん坊が来世のそなたじゃ。) (えっ? 聖者様。あれが私・・・?) 素生は驚いた。まさか来世へ行く前に自分の赤ん坊の姿を見るとは。だが、今見ている赤ん坊が自分だと思うと、ぐっと親しみが増した。 (まぁ、今のわたしよりずっと美人だわ。きっと将来、とても美しいひとになるわね。) (ほっほっほっ。ならばよかった。しかと見るがよい。) どうやら赤ん坊の誕生を祝う宴の席のようだ。訪れた人々が次々に祝いの品を手渡している。若い夫婦の前には祝いの品が並べられてゆき、客人の卓には祝いの料理が並べられ皆の笑顔が溢れている。 (まぁ、素敵。こんなに誕生を喜ばれて幸せだわ。) 素生がひとすじの涙を流した時、祝いの人々も宴の賑わいもすぅーっと消えてしまった。  そして目の前に別の光景が現れた。今度は少し広く大きな茶屋の片隅に、まだ少女の顔を残した美しい若い娘がいる。その横に、少し年増の女が立ち茶の作法を教えている。 「さぁ、花蝶。やってごらんなさい。最初から全部を一人でね。」 年増の女は、若い娘に向かって言った。 (えっ? 花蝶ですって? あれが花蝶・・・) (そうじゃ。素生。あの若い娘が来世のそなた。先程の赤ん坊が成長した姿じゃよ。そなたは美しく、花蝶という名がよいのであろう?) (えぇ、そう・・・ そう申し上げたわ・・・) またも驚いて素生は二人から目が離せなくなった。 「はい。お母様。では最初からやってみるわ。」 花蝶は教えてもらった通りに丁寧に茶葉や道具を扱い、最初から一人で見事にお茶を淹れて見せた。 「出来ましたわ。お母様。いかがかしら?」 母親は茶器を手に取るとしっかり眺め、香りを確かめ一口飲んだ。 「えぇ、上出来よ。美味しいわ。それにあなたは、とても丁寧に茶葉や道具を扱い美しく茶を淹れるわね。あなたには才があるわ。明日からは、お店でもお茶を淹れてちょうだい。 それから、今度の王府でのお茶会には私に同行してちょうだい。」 「えっ? お母様。私がお母様と一緒に王府のお茶会へ?」 「えぇ、そうよ。この腕前なら大丈夫。皆様に喜んでいただけるわ。いいわね。それまでにもう少し練習をしておきなさい。」 母親は、花蝶の手を握り優しく微笑んだ。  母娘の仲もよさそうな光景にまたも涙を滲ませた素生だったが、その幸せな情景はすぅーっと消えてしまった。慌てた素生はその情景を掴むように手で追ったが、母娘の姿は消え去り、替わりに王府らしき庭の光景が浮かんできた。  松が植えられた池のほとりに石畳が敷かれた場所があり、その先に屋根の付いた東屋があった。その周りを囲むように3つの卓が設けられ、町から選ばれた3つの茶舗がそれぞれ卓に着き茶を淹れている。そのうちの一つが花蝶たちの茶舗だった。  中でも花蝶の所作は美しく見る者の目を引き、母娘が仲睦まじく茶を淹れる姿に人だかりが出来ていた。 (まぁ、大盛況ね。すごいわ。花蝶のお茶は素晴らしいのね。皆に喜ばれているわ。) 素生も安心した。だが、他の二つの茶舗の卓に人はまばらで、そのうちの一つの茶舗には花蝶と同じ年頃の娘が来ていた。美しさでも花蝶の上をゆく美人で彼女の前にも若い男が寄ってはいたが、茶を求めてではない様子。娘は笑顔で若様たちの相手をしながらも茶を求められてはいない事に時々、曖昧な顔をして口惜しさを滲ませていた。 (素生よ、よく見るがいい。あの茶舗の娘を。花蝶とちょうど同じ年頃のようじゃのう。先程からちらちらと花蝶を見ておる。時々、顔が歪んでいるのが分かるかな? まもなく嫉妬の心が生まれる瞬間じゃ。) (えっ? あの仮面が見せた嫉妬ですか? このような情景で生まれるのですね。あんなに美しく品のある方なのに、私になんて・・・) (あぁ、そうだ。あの美しい娘が花蝶に嫉妬を抱いたのだ。だが、これはどうする事もできぬ。そなたは丁寧に応じ、取り合わぬ事じゃな。  どんなに美しく品があっても、位が高く財があっても、誰にでも嫉妬の心は生まれるものなのだ。この嫉妬を源に幾通りもの心が生まれる。その先の路をどう選ぶかで心持ちが変わり、心持ち次第でその者の抱える心が変わり姿が変わるのじゃ。) 聖者は素生に言った。うつ向いてしまった素生の前から、嫉妬に歪んだ娘の顔もこの光景も消えていった。  うつむいたままの素生の頬に夕陽が差し込んだ。眩しさに驚き顔を上げると目の前に窓辺で夕陽を見つめる白髪の老女がいた。窓辺に腰かけた老女は、穏やかな微笑みを沈みゆく夕陽に向けている。 (まぁ、なんて穏やかな顔かしら。) (あぁ、本当に穏やかな好い笑顔じゃ。あれはそなたの顔、年老いた花蝶じゃよ。そなたは来世、年老いて天寿を全うしたいのじゃろう?) (えぇ、その様に申し上げました。ならば私の来世は、あのように髪が白くなるまで生きられるのですね。今世の何倍も生きられるのですね。) (あぁ、そのようだ。しかも、あのようによい顔をしておる。きっとよい生涯だったのであろう。) (善かった・・・ 善かったわ。嫉妬で死ぬことはなかったのね。不運ではなかったのね。本当によかった。)  窓辺の老女は時折、夕陽から目を落とし茶器を撫でながら優しく見つめている。 (見よ。素生よ、あの老女の姿を。あれが愛おしいという心の表れじゃ。とても大事そうに優しく茶器を見つめ撫でているであろう。) (えぇ、本当に。とても優しく大事そうに。きっとたくさんの想い出が浮かんでいるのでしょうね。長い年月を茶器と一緒に過ごしてきたのでしょうね。) 聖者は黙って頷いた。 素生の目に三度目の涙が滲んだ。夕陽の暖かさが頬だけでなく胸にも広がる。花蝶の微笑みのような穏やかな幸せが、素生の胸いっぱいに広がり思わず目を閉じていた。 そして再び目を開けた時、白髪の花蝶も夕陽の光景も消えていた。  聖者はそっと、素生の顔から花蝶の仮面を外した。仮面の下の素生の頬には、まだ涙が静かに流れていた。
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