想いの仮面

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想いの仮面

   聖者は何かを想い出したように、唐突に素生に尋ねた。 「ところで、そなたは今世、23歳とずいぶん若くしてこちらへ来た。聞けば想い人もいなかったという。どうじゃ、来世では恋をしたいかい? 誰かに嫁ぎたいかい?」 「あぁ・・・ うーん。私は想うという事もよく分からないまま命が尽きてしまいました。私だって、こんなに若いまま奉公の途中で死んでしまうなんて思いもしなかったわ。すべては奉公が終わってからと思っていたの。  でも、その歳が近づいて来てお屋敷を出たところで行く当てもないから、もう少しお屋敷に残れたらとも思っていたの。だから嫁ぐなんて、考えたこともなかったわ。」 素生は少し困った顔で聖者から目をそらした。 「そうか・・・ そうか。だが、それは今世の話。今、我々が話しているのは来世の話じゃ。そなたの希望でいいのだよ。その通りになるのかは、またその先の別の話じゃから。」 明るさを取り戻すように聖者は言った。 「えぇ、分かりました。来世では・・・ せめて誰かを想うことをしてみたい。仲間の侍女たちがしていたように。何だか楽しそうだったから。それだけではだめかしら?」 それまでとは少し違い、ほんのわずかな悪戯心を含んだような笑みを浮かべた聖者が仮面を差し出した。 「ならば、この仮面を付けてみよ。ここまで書き記してきた事にも関わる大事な心の仮面じゃ。」 「これは何という心ですか?」 聖者は笑みを浮かべ黙っている。素生がゆっくりと仮面を顔に当てると、仮面はぴたりと貼り付いた。  すると辺りに木々が現れ、どこか広いお屋敷の庭の景色の中に素生は立っていた。小さな川が流れその上に広く短い橋がかかり、その橋の上に誰かが立っているのが見えた。  どこからか鼻にかかる濁点が付いたような笛の音が聞こえてくる。そしてその音に合せて銅鑼が鳴っている。音のする方へ歩いて行くとさっき見えた橋に近づき、その橋の上に同じ仮面を付けた青年が立っているのが見えた。素生が近付くと青年は、素生に向けて手を差し出した。素生は誘われるままに青年の手を取り、導かれ広い橋の上で共に舞い始めた。  つかず離れず、手を繋ぎ背を合わせ、ひらひらと二人は舞った。二羽の鶴が躍るようにひらひらと。そして二人の仮面がぐっと近づいた時、その仮面の奥に青年の瞳が見えた。仄暗い静かな湖のような瞳が見えた。 「あなたは誰? 名はなんて?」 素生は唐突に青年に問いかけた。そして、問いかけた自分の声を聞き驚いた。 「まだ、名を決めていないんだ。」 青年は優しく答えてくれた。 「そう・・・ そうなの・・・ 唐突にごめんなさい。私ったら・・・ ごめんなさい。あなたもこの門扉の空に来た方なの?  次の世で、私がこれから行く次の世で、あなたに会えるかしら? せめて名を知っていたら、覚えていたらと思ったのだけど・・・」 「ふふっ。どうかな。でももし、また会いたいと思ってくれるなら、僕の瞳を、この瞳を覚えていて。」 「あなたの瞳を? 出来るかしら・・・ 覚えていられるかしら・・・」 「大丈夫。きっと大丈夫さ。君が覚えていたいと心に決めて今この時、僕の瞳を見つめてくれたならきっと・・・」 素生は青年に言われるままに仮面の奥の瞳を見つめ、まだ繋いだままの手をぎゅっと握った。きっと覚えている。そう心に決めて。 (私はこの瞳を覚えていたい。仄暗い湖のような、この美しく静かな瞳を覚えている。) そう心の中で呟いて。  そして二人の手が離れると、笛の音が止み銅鑼が止んだ。シャーン。銅鑼の残した余韻が消えると、素生の目の前から青年の姿も消えてしまった。素生の周りから木々が消え、橋も川も大きなお屋敷の光景も次々に消えていき元の仄暗い雲が漂う門扉の空に素生は立っていた。  素生は慌てうろたえ、聖者に取りついた。 「教えてください。彼の名はなんて? 私は次の世で、また彼に会えるの?」 「落ち着きなさい、素生。」 聖者は、素生の顔から仮面を外した。 「どうした素生、落ち着いて話しなさい。あの青年に、また会いたいのかい? 次の世で会いたいのだな。彼はまだ、名は決めていないと言っておったじゃろう。」 「えぇ、言っていたわ。だから私は彼の名も分からない。探しようがないわ。でも会いたいと思ったの。また会いたいと。」 素生の声にはほんの少し涙が混じっていた。 「ふむ。素生よ、それが“想う”という心じゃ。誰かのことを想うという心、慕うという心じゃ。そこから恋が始まりやがて終わるか、愛に変わるか、なのじゃよ。」 聖者は、穏やかに微笑みながら優しく素生の肩を叩き言った。 「想う・・・ この心が、今の私の心が想う・・・ じゃあ、今世で、お屋敷の侍女たちが若様たちの事を話していた時、こんな心だったの?」 「あぁ、そうじゃよ。素生もこちらへ来てやっと知る事が出来たな。想うによく似た心に、愛おしいという心もある。これはもっと深いんじゃ。想うよりずっとな。」 「そう・・・ これが想うという心なのね。嬉しい。侍女仲間は、こんな心を抱いて毎日を過ごしていたのね。知らなかったわ。素敵ね。胸の内に彼がまだ棲んでいるようだわ。  それで、この次の世で彼に会うにはどうしたらいいの? どう探せばいいの? もう会えないかもしれないと考えると胸が痛いの。」 素生は想いの心を抱きしめるように胸に手を当てたまま、聖者に聞いた。 「はっはっはっ。その胸の痛みが“切ない心”じゃよ。身を切られるような痛み、心が縮み固まるような痛みじゃ。これで課題の5つの心すべてを知る事が出来たな。善かった。 彼にもう一度会うには、彼が何と言っていたか思い出してごらん。それが唯一の方法じゃ。」 素生は目を閉じ、先程まで広がっていた光景を思い出すようにして胸の手に集中した。 「彼は確か・・・ そうだわ。瞳を、彼の瞳を覚えていてと。そう言っていたわ。」 「そうじゃ。青年はそう言ったのだ。素生に出来るのは、あの青年の瞳を胸にしっかりと覚えておく事じゃ。彼の瞳を見た時に感じた胸の内に起こったことを覚えておく事じゃ。」 「彼の瞳を見た時・・・ そうだわ。彼の瞳を見つけた時、胸の奥がつーんとなって、彼の瞳の内の湖のように何かがじわーっと広がったわ。静かな痛みのような、ひどく大事な約束を想い出してズキンとして。淡い痛みに鼓動が止まるような・・・ 息を飲んだわ。あの瞬間・・・」 「うむ。そうであったか。それでよい。それでよいのじゃ。その胸の内の静かな痛みと広がりを、彼の瞳の奥深さと一緒に覚えておけばよい。きっと縁あってまた会えるであろう・・・ 名は必要ないのだよ。そなたたち二人にとってはな。その胸の内に在るものこそが、必要な手がかりなのじゃ。」 聖者は言い終えると、優しく素生を見つめた。 「はい、聖者様。覚えておきます。しっかりと。この胸の内に残る痛みと彼の瞳を、決して忘れないように。」 素生は、聖者の手元にある“想いの仮面”を見つめながら言った。 聖者はすぅーと想いの仮面を消すと、素生に微笑み言った。 「さぁ、ここまで疲れたであろう。少し横になって休むといい。」 雲を集めた広がりの上に素生を寝かせると聖者は姿を消し、素生は心地好い雲の冷たさに眠りへと落ちていった。
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