別れと旅立ちの時

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別れと旅立ちの時

 素生はまだ眠りに就いていた。穏やかな寝息を立てている素生は、下界にいた時のようで生身の人のようだった。この素生の姿もこれが見納めである。雲間に戻って来た聖者は、そんな素生の姿をしばらく見つめていたが先に下界へ旅立たせた青年を思い素生を起こすことにした。 「素生よ。そなたの旅立ちの許可が下りたぞ。もう何時でもこの門扉の空を出て、下界へ旅立てるぞ。」 聖者に起こされた素生は、ゆっくりと体を聖者に向け言葉の意味を追った。すると、何とも言えぬ不思議な雰囲気の雲間を出られる喜びと不安が胸に広まった。  素生は、門扉の空ではこの雲間しか知らない。仄暗く青白い雲ばかりの間。自分自身の心と下界での振り返りに向き合うこと、未来に想いを馳せることしか出来ない間。それは、あっけなく今世を終えた素生にとってなかなかに苦しい事だった。死の間際、今世を整理することなく門扉の空へ上がってしまったから。突然の死の衝撃が強すぎて記憶が遠のいていたからだ。  しかし、聖者との対話があった事で記憶が繋がり死の真相も理解できた。そして、来世にも想いを馳せることができ来世の書が記された。そこまでを経て休息の眠りに就いた素生は、この眠りですっかり整理がついた。今世と門扉の空と来世への整理が。そこで素生は祖母のことを思い出した。 「聖者様。もう下界へ行ってよいのですか? こんなに早く?」 「あぁ、帝の許可が下りた。そなたが眠っている間に、また十年が下界では経っている。もう何時でもよいぞ。」 「そんなに? そんなに私は眠っていたのですか?」 「ふふっ。なぁに、ここではほんの一時。だが、下界では10年というだけじゃ。」 「そうなのですね。聖者様、下界へ行く前にお祖母様に会えますか?」 素生は、気がかりだった祖母のことを尋ねた。 「あぁ、そうであったな。下界へ旅立つ前にお祖母さんに会わせてやる約束だったな。」 聖者は、肩から羽根筆を取りだすと一振りし、青白い光の玉を一つ呼んだ。 青白い光の玉が聖者の前まで来ると、聖者は再び羽根筆で光の周りを撫でた。すると光の玉は、素生の祖母の姿に変わった。 「素生。まぁ・・・ こんなに早くこちらへ来てしまったのね。」 祖母は両手を広げて素生を受け止めた。素生はしっかりと祖母の腕の中で下界とは違う懐かしさと温もりを感じた。 「えぇ、ごめんなさい。思いがけずこんなに早くに・・・ でも、またすぐに。これから下界へ行けることになったの。帝の許可が下りたのですって。」 「まぁ、そうかい。ならば今度はもっとたくさん下界を味わっておいで。」 「うん。お祖母様は、まだ行かないの?」 「あぁ、私はまだ休息中だよ。下界が長かった分、休息と整理に時間がかかるんだ。  素生、私がいなくなってから苦労をしたね。ごめんね。私が慎ましく厳しくしつけてしまったから・・・ そうでなかったら、あなたはもっとのびのびと楽しく多くのことを経験し、多くの心を味わうことができたでしょうね。娘盛りを十分に楽しむことなく戻って来てしまったなんて。楽しむことを、私は教えなかった。すまないね。」 「ううん、いいの。いいのよ、お祖母様。それはそれでよかったのだと思う。確かに自分の心も、他の人の心も分からない事が多かったわ。楽しいという事もよく分からなかった。だからこそ、この門扉の空に来て知った事がたくさんあったの。きっと今世は、下界とこの門扉の空までが一つの生涯だったのだと思うわ。だからいいのよ。私はお祖母様が大好きだったし、その教えを信頼して守る事は苦痛ではなかったのだから。」 素生は、祖母の手を握り笑顔で話した。 「まぁ、素生。大人になったのね。ありがとう。あなたからそう聞いて、私も今世の後悔を手放すことができるわ。ありがとう。来世は楽しんでね。」 「えぇ、お祖母様。ありがとう。もしまた、いつかの世で会えたら、その時はお祖母様も楽しい生涯を。」 素生は、祖母の手を放した。空になった手で祖母は涙を拭うと微笑み、聖者に向かって一つ頷いた。 「素生よ、時間だ。」 聖者はそう言って羽根筆を振り、祖母の姿はまた青白い光の玉に戻ってしまった。 光の玉は、素生の周りをくるくると3周してすぅーと飛んで行ってしまった。 「聖者様、ありがとうございました。一目お祖母様に会えてよかった。」 「うむ。ならばよかった。お祖母さんは、まだ少し休息が必要じゃ。此度の世では会えぬかもしれぬな。  素生がこの門扉の空へ来たのは、ほんの少し前のように思っているだろうが、下界ではあれから100年が経っておる。随分と時が経っているのじゃぞ。」 聖者は高笑いしながら言った。 「えっ? そんなに? もうそんなに長い時が経ったのですか? なんて早いの。  では、下界も随分と様変わりしたのかしら? それともあの頃のままなのかしら? いずれにしても、もう誰も私が知る人はいないわね。」 素生は少し心細げにうつむいた。 「むろん。そうじゃろうな。だが、そもそもそなたが100年前の素生だと気づく者など誰もおらぬし、そなたが素生の記憶を持っている事もない。いや、正確には全てを忘れているのじゃよ。」 「えっ? 下界に行ったら何も覚えていないのですか?」 「あぁ、何も。一切じゃ。下界へ降りる途中で前世の事も、この門扉の空の事も。すべて忘れてしまうのじゃよ。下界へ行く前に、この清無水(チンウゥシュイ)を飲むからな。    素生よ、そなたにも素生になる前の生涯があったのだぞ。それをすっかり忘れているであろう? そういう事じゃ。  それでもな。ご縁というのは不思議なもので、この幾度にも及ぶ生涯の中での約束や絆、門扉の底や空での誓いなどが集約してご縁になるのじゃが、その絲の力は偉大でのう、時を越え世をまたがって人や場所や・・・ 様々なものを結びつけるのだよ。そなたが覚えていなくてもな。  そして、そなたの心の奥深く底に眠るように留まるご縁もあるのじゃ。そのご縁は、時も場所も越えた記憶のようなもの。そなたに必要な時に鍵が現れ自然と開封され、記憶が甦りそなたの助けとなる。案ずることは何もないのじゃよ。」 聖者は、盆の上の水を透明な美しい杯に注いだ。その中に、帝から賜った紅い丸薬をそっと入れた。紅い丸薬は一瞬のうちに溶け、無色透明な清無水となった。 「嫌です。忘れたくありません。せめてこの門扉の空での事は、覚えていたい。王府でお茶を淹れていた来世の事や夕陽を眺めた花蝶の微笑みの事も。聖者様と話した事も。何よりあの青年の瞳のことを、私は覚えていたいの。  すべてを忘れるなんて・・・ 潔く清く無に帰すなんて・・・ 嫌です。忘れてしまうなんて嫌です。」 盆の前から後ずさりしながら素生は言った。 「うむ。素生よ。そなたの気持ちは分かる。よーく分かるぞ。ここに来て初めて知った“心”がたくさんあったからな。その心を一つ一つ知るたびに、そなたの顔に表情が生まれた。心が宿っていったのを私は見ていたからな。  あの青年を見た事もそうであろう。素生にとって、初めての想い人となったのだから・・・ 忘れたくない気持ちは分かる。  だがな、この清無水は云わば通行証のような物。これを飲まずに下界へ降りることは叶わぬのじゃよ。素生、私が話したご縁のことを信じるのじゃ。ご縁の力を信じて下界へ旅立つのじゃ。」 聖者は盆を手に、素生に近付いた。素生はなおも後ずさりし震えている。 「素生よ。大丈夫。この清無水を飲んでも、そなたが心に深く宿したことはご縁になる。きっと来世で思い出せる。  この門扉の空で見た来世の中で出逢ったものに、下界で再び出逢った時、ここでの約束や誓いが何かを感じさせ大事だと告げる。縁あるものには必ず出逢い、そなたの胸に広がる痛みや温かさ、高鳴りが大事なことに出逢ったのだと教えてくれるはずじゃ。案ずるな。」 素生は潤んだ目で聖者を見つめ、言葉を胸の内で理解しようとしている。 「あの青年の瞳を見た時のように? あの時、私の身に起こったように?」 「あぁ、そうだ。きっと、そなたなら分かるはずじゃ。だから安心して清無水を飲み、次の世へ旅立つがよい。娘盛りを、心の出来事を味わってくるがよい。私が出来るのはここまでじゃ。別れの時が来たのじゃよ。素生、花蝶の生涯へと旅立つ時が来たのだ。」 聖者の声も手も震え盆の上の杯が波打った。声が震えていたのは、聖者も別れの時に涙をこらえていたからだ。震え波打つ清無水を前に、素生も一歩ずつ聖者に近付くと盆を支えた。 「聖者様、きっと私は、ずっとはここに居られないのでしょう? しかも若くして戻って来てしまったから、休息もお祖母様ほど必要じゃない。もう次の世が決まって、帝の許可も下りているのだものね。早く旅立つための、来世の仮面や今世のやり残しの仮面だったのでしょう?   私は、聖者様を信じます。私の胸の内やご縁を信じます。きっと覚えている。きっとお知らせが分かる。あの青年の瞳も、白髪まで生き抜き穏やかに夕陽を見つめる微笑みも。」 「うむ。そなたなら大丈夫。来世を存分に味わえる。今世で味わうことの出来なかった様々な心も味わって、より豊かで長い来世を生き抜ける。安心しなさい。」 聖者は穏やかに微笑み盆を差し出した。素生も微笑み返すと、杯を手に取り清無水を飲み干した。 「ありがとう。聖者様。この門扉の空で聖者様と語らえて楽しかったわ。誰にも話したことのない未来についてを、私が話したなんて驚きだった。でも、新しい自分に出会ったみたいでとても新鮮な気持ち。ありがとうございます。」 「そうか。それは善かった。この門扉の空では、皆そうして新しい自分に出会い過去の自分を労って次の旅立ちに備えて行くのじゃよ。さぁ、もう清無水が体の中を巡り効いて来る頃じゃ。行かねばならぬ。さぁ、これは旅立ちのお守りじゃ。」 聖者は、素生の右手の小指に紅い絲輪を通し両肩を優しく叩いた。素生はまっすぐに聖者を見つめ、一つ頷くと 「それでは聖者様、私は次の世へ参ります。もう仮面に踊らされるのではなく、自分の胸の内に宿った心で、新しい生の私の顔で一瞬一瞬を舞って来ます。だからもう仮面はいりません。今度こそ、恐れず拒まずこの世の心を味わい自分の生涯を生き抜いて来ます。目の前のことを、ただ受けとめる器量を培って来ます。」 そういうと素生は聖者に頭を下げ、決意が宿った晴れやかな笑顔で聖者をしばらく見つめると、くるりと背を向け仄暗い雲の間から一つの青白く光る球体となって下界へ降りて行った。 「素生よ。その名を忘れ今この時、旅立つがよい。人の生涯で最期には、きっと後悔はするものじゃ。やり残したと思うこともきっとある。  それでも、そなたが、楽しかった。嬉しかった。たくさん泣いた。たくさん笑った。まっすぐに愛した。愛おしいと抱きしめられた。そう想えたらよいのじゃ。この門扉の空で見つけ知った心というものが身の内に広げる感情を十分に味わう事が、そなたの来世での課題じゃ。  狂おしく痛いほどの感情の波の世界へ旅立ったのだ。胸いっぱいに心震える奇跡を体感する旅が始まったのじゃ。」 門扉の空の聖者は、降りて行く素生の姿を見送りながら心の中で叫んだ。                                 完
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