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X 朝の支度
ベッドを降りると、サイドテーブルに二つの洗面器が置かれているのが目に入った。白いホーローの、内側に花の絵がラインを引く様にぐるりと一周描かれているものだ。湯が入れられているのだろう、柔らかな湯気がふわふわと舞う様に立ち上っている。
御屋敷暮らしの人間は、こうして温かい湯を毎朝部屋に用意して貰える、という話を聞いた事があったが、どうやらそれは本当だったらしい。寝起きは冷たい水で顔を洗うのが当たり前だった私にとっては衝撃的な話であったが、事前知識が辛うじてあった為に『これは何をするものなのか』と訊かずに済んだ。
自分たちは庶民故に屋敷の勝手がわからないのは当然だが、屋敷での生活に慣れ親しんでいる彼女らにそれを知られるのは余りにも気分が悪い。昨晩――晩餐時の、レイを思い出せば殊更にそう思う。無知は恥であり、この世界でそれは咎められる事なのだから。
顔に掛かる髪を耳に掛け、動揺を悟られない様に両手で湯を掬う。
水で無く、湯であるだけでだいぶ気分は違った。冷たい水は肌に刺さる様で、痛みさえも感じるのだ。水は、温かければ温かいだけ良い。
しかしその湯で顔を洗ってみると、落胆に近い感情が心中に広がった。湯といっても、バスタブに張られた湯ほどの温度は無く、人肌に近い。故に、顔を洗った気がしないのである。
溜息交じりに顔を上げると、いつの間にか傍にアイリーンが立っていた。驚く隙も与えない程素早く、濡れた自身の顔を柔らかなタオルで拭ってくれる。そのお陰で、顔から滴り落ちる湯がネグリジェを濡らす事は無かった。
普段の私なら、タオルを使わずネグリジェの袖で顔を拭ってしまう事だってあるというのに。これ程至れり尽くせりな生活を送っていたら、元の生活に戻れなくなってしまいそうだ。
不意に、隣のレイが「あの」と声を上げた。振り返り彼女に目を遣るが、レイはなんだか難しい顔をしてアイリーンを見つめている。
「この部屋に、カレンダーとペンを置いてもらう事って出来る?」
レイのその発言に、考えている事が分からず首を傾げる。それはアイリーンも同じだった様で、「カレンダー、で御座いますか」とやや困惑気味に返していた。
「日付が分からないと、落ち着かないから」
「日付で御座いましたら、私どもが毎朝お伝え致しますが」
「毎晩カレンダーに線を引いて、一日を終わらせるのが習慣なの。それが出来ないと本当に落ち着かなくって……、簡易的なものでいいから用意して欲しい」
レイのそのやけにはっきりとした物言いに、僅かながら驚く。
やや能天気気味の彼女に、そんな習慣など言わずもがな無い。その習慣があったのは、彼女では無く母の方だ。
それも〝習慣〟という程の事では無く、時々眠る前にカレンダーを眺め、その日一日を終わらせる様にペンで線を引く事があった、程度の事である。
「……承知致しました。旦那様に確認致します」
「あの人に確認しないと、用意して貰えないの?」
「〝あの人〟では無く〝お父様〟とお呼びください。――お嬢様方には何不自由のない生活を、と旦那様から仰せつかっておりますが、私の一存では決め兼ねる事も存在します」
「……たかがカレンダー一つで大袈裟な」
「貴族の娘になる、という事はそういう事で御座います。ですが――カレンダー程度であれば旦那様も承諾してくださるかと」
「あぁ、そう。まぁなんでもいいけど、なるべく早めにお願いね」
「承知致しました」
アイリーンからふいと顔を背けたレイは、何処か不機嫌そうだ。寝起きが悪いという訳では無く、単にこの生活が苦なのだろう。レイは喜怒哀楽が激しい為、私は不機嫌な彼女の事も見慣れているのだが――今のこの場の空気は決して良いとは言えない。レイの背後に控えていたネルも、居心地が悪そうにそわそわとしていた。
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