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「此処の部屋は壁が厚く、音が外に漏れにくい構造になっていると以前耳にしました。少し位なら、音を出しても問題無いかと」
「じゃあ私ヴァイオリン弾いてみたい。ルイはピアノね」
勝手に話が進み、思わず「えっ」と声を漏らす。しかしレイは気にする素振りなど一切見せず、ヴァイオリンケースを躊躇いなく掴んで開き始めた。
「ちょ、ちょっとレイ、やめて頂戴。そんな勝手な――」
「構いません」
アイリーンが冷え冷えとした声で私の言葉を遮り、グランドピアノの鍵盤蓋を開く。そして慣れた手付きでボルドーのキーカバーを外し、背付きのピアノ椅子に座るよう促した。
「でも下手に触って、壊したりしたら……」
「その時は、修理業者を呼びます」
私を見つめるセシリアンブルーの瞳は硝子玉の様で、僅かな畏怖感からそれ以上の言葉が出て来なくなってしまった。小さく息をついて、促されるままにピアノ椅子に腰掛ける。
アイリーンはピアノから離れ、私たちを見るとも無く見ながら扉の前に立った。役目を終えた人形の様だ。
ピアノに向き直り、恐れを抱きつつも鍵盤の上に右手を乗せる。そして鍵盤の中心に位置する白鍵を押し込む様に叩くと、ポロンと〝ド〟の音が鳴った。
昔、父が言っていた。〝ド〟の音が分からなくなった時は、鍵盤の形を見ればいい、鍵盤の並びには法則的なものがあると。黒鍵が二つ並んだ場所の左側の白鍵が〝ド〟の音。
88鍵の内、〝ド〟の音は全部で八つ。なんとなしに左端から順番に〝ド〟の音だけを鳴らしていくと、右側に進むにつれてどんどんと低い音になっていった。こうして鍵盤を叩くのは、少し楽しい。
「――あれ、音、出ない」
レイの声にふと我に返り、顔を上げた。
ヴァイオリンを構えたレイが、ピアノの傍に立っている。しかしあまりに彼女の立ち姿が不格好で、思わず吹き出す様に笑ってしまった。
ヴァイオリンは私たちが想像している以上に大きく、弓もかなり長い。故に仕方がない事ではあるのだろうが――ヴァイオリンを持っているというよりも、ヴァイオリンに持たれているという様なその姿は酷く滑稽で、失礼だと分かっていながらも顔がにやけてしまう。
弓毛を弦に当てて擦ってはいるものの、すぅ、と抜けた音が出るばかりで肝心の音が出ない。
「おかしいな、ママが、ヴァイオリンは音を出すだけなら誰でも出来るって言ってたのに」
彼女の〝ママ〟という言葉に鼓動が跳ね上がり、慌てて扉の前に立つアイリーンに目を向ける。しかし彼女は微動だにせず、興味があるのか無いのか分からない様な顔をして此方をぼんやりと眺めていた。
レイはというと、自身の言葉を失言だと思っていないのか、それとも単にヴァイオリンに集中し過ぎているだけなのか。私の心配をよそに「松脂が足りないのかな」などとぼやいている。
「松脂以前の問題ね。持ち方がおかしいのよ」
レイに指摘しつつ、溜息をついて椅子から腰を上げた。そして未だヴァイオリンと格闘している彼女に近寄り、楽器を傷つけない様にそっと姿勢を正してやる。
「背が曲がっているわ、前屈みになり過ぎ。背筋をもっと伸ばして。弓の角度が曲がっているし――そもそも弦に押し付けすぎよ、力が強いの。これじゃあ音は出ないわ。もう少し肘を上げて」
「うわぁ、難しい」
姿勢や弓の持ち方、ヴァイオリンの構え方を何度も直していると、弓で弦を擦った瞬間ポーンと低い音が鳴った。その音にレイが瞳を輝かせ、もう一度音を鳴らす。
「凄い、ヴァイオリンの音だ! 思いの外、音大きいんだなぁ」
「コンサートでもヴァイオリンは使われるから……。勿論、技量が無いと大きな音は出せないでしょうけど」
「これ、レッスン受ければ弾けるようになるのかなぁ」
「……まぁ、無理ではないでしょうね」
会話を交えつつ、気を良くしたのかレイが何度もヴァイオリンで音を鳴らす。指板の弦を押さえていない為開放弦でしかないのだが、楽しそうなレイを見ていると心が和む。
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