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「――お望みであれば、ヴァイオリンの指導が出来る家庭教師をお付け致しますが」
突如真横で聞こえたアイリーンの声に、驚きのあまり「わっ」と声が漏れた。レイは声こそ出さなかったものの猫の様に飛び上がり、有ろう事かその手から弓が滑り落ちる。
ヴァイオリンの弓は壊れやすく、破損状況によっては修理不可能ということもあり得る。落としたからといって必ずしも破損する訳では無いだろうが、敷物はグランドピアノの下にしか敷かれておらず、私たちの真下の床はリノリウム。無傷で済む確立の方が圧倒的に低い事は明白だった。
瞬間的に最悪の事態が脳内を駆け巡り、咄嗟に受け止めようと手を伸ばす。しかし既の所で弓を掴んだのはアイリーンだった。
驚かせてしまった様で申し訳ありません――と感情の乗っていない声で言って、受け止めた弓をレイの手に再び握らせる。
「拝見したところ、ルイお嬢様は楽器にお詳しい様で」
「……詳しくは、ありません。ヴァイオリンも、ただ傍から見ていておかしな所を指摘しただけですので」
「おかしな所を指摘できることは、決して容易では御座いません。ピアノも、〝ド〟の音のみ鳴らしていたのはお詳しいからでは?」
「……貴女こそ、音楽に詳しいんですね」
「無知、という訳では御座いません」
返す言葉が無くなってしまい、ぐっと押し黙る。
彼女はとても、扱いづらい。人と関わる事が苦手な私に扱いやすい人間など居ないのだが、アイリーンは特別苦手だ。
彼女は何を考えているかがまるで分からない。この冷徹な彼女が本当の彼女の様でいて、しかし実はその中に別の人物が居る様な。
言葉にするのは難しいが、どうも本心が見えないのだ。
「……家庭教師の件は、保留でお願いします。レイと……話し合って、決めたいので」
「承知致しました」
レイの腕の中からするりとヴァイオリンを抜き取り、押し込む様にケースに仕舞い込んだ。
やや乱暴な手付きだったかもしれない。けれども今は、とにかくこの音楽室から早く出て行きたかった。
もっと正確に言えば、アイリーンに早く家庭教師の話を忘れて欲しかった。
私たちに音楽を教えてくれるのは、父や母だけでいい。それ以外には要らない。両親が教えてくれるのならピアノでもヴァイオリンでも喜んで覚えるが、それ以外の人間が教えるのならば楽器には触れたくない。
レイはもしかすると、そうではないのかもしれない。『レッスン受ければ弾けるようになるのかな』なんて口にしてしまう位だ。何も考えていない可能性の方が高い。
だがどうしても、彼女にも両親以外の人間から知識を得て欲しくなかった。
――無駄な知識を付けていない私たちのままで、二人の元に帰りたい。この屋敷に、染まってしまいたくない。
「――あ」
そんな私の思考を遮る様に、アイリーンが声を上げた。彼女にしては珍しい、素の見える声だ。
「……申し訳ございません。昼食のお時間が、過ぎてしまいました」
彼女の言葉に、そういえばと音楽室の掛け時計に目を遣る。随分と長い時間、屋敷案内をされていた。最後に時計を見たのは、どの位前だっただろう。
掛け時計が指すのは、15時30分。もうそろそろ、お茶の時間だ。昼食を取るには遅すぎる。
「今からでも昼食のご用意は出来ますが、如何なさいますか?」
そう尋ねるアイリーンの声は、心做しか沈んでいる様に思えた。昼食の時間に気付けなかった事が、余程ショックだったのだろうか。
レイと顔を見合わせると、彼女が眉間に皺を寄せた。そしてゆっくりと、声を発さずに唇を動かす。
――た、べ、た、く、な、い。
読唇術を会得している訳では当然無いのだが、彼女は両親に聞かれたくない事を私に伝える時、こうして唇を動かして見せる事が多かった。故に、簡易的な言葉のみであるが、彼女の唇の動きを見ていればある程度読めてしまう様になったのだ。
それに、今のレイの顔はアイリーンから見えていない為、彼女の唇の動きが読めるのは文字通り私だけだった。
「昼食は結構です。コルセットが苦しくて、どうせ用意して頂いても入らないと思いますし」
そう伝えると、アイリーンが「畏まりました」と言って小さく頷いた。
「3時ですので、お部屋にお茶と軽食をお運びします。せめて、焼き菓子の一つだけでも」
「……わかりました」
ヴァイオリンケースを元あった場所に立て掛け、レイの手を引き音楽室を出ていくアイリーンの後に続いた。
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