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刺々しい空気を撒き散らしながら玲香が階段を上がっていく。
あれ? バルサンは買いにいかなくていいの?
虫嫌いより睡眠不足の懸念が勝ったのだろうか。それなら最初から誤魔化す必要なんてなかったな。
重い足取りで寝室へ戻ると、玲香が忙しなくジーンズを履いているではないか。
「着替えたりして、どうしたの?」
「私が虫嫌いなの、知っているでしょ」
「ああ、うん」
やはり買いに行くのか。二十四時間営業のドラッグストアを思い浮かべる。家から車で十分だ。起こしてしまったのは俺だ。申し訳なさは感じている。
「俺が買いに行こうか?」
「は? 何のこと」
「いや、だから、バルサンでしょ」
「バルサン?」
「あ、殺虫剤かな?」
「何を言っているのか分からないわ」
「えっ?」
着替え終えた玲香がクローゼットから仕事用のカバンと小型のボストンバッグを取り出した。バッグにブラウスとズボンを手早く詰め込む。
「私、今夜は駅前のホテルに泊まります」
「えっ!」
「あれのいる家でなんて眠れない」
「そんな、大げさな」
「大げさですって?」
しまった。声にする言葉を間違えた。だがもう遅い。玲香の目がまるで裏切り者を見ているかのよう。
「あなたがそんな冷たいひとだとは思わなかったわ」
「ええっ、冷たいなんて、そんな!」
部屋を出る玲香の腕をとったが、振り払われる。
「ちょっと、待てって」
必死の呼びかけも聞かずにさっさと階段をおりて行く。
虫は嫌いなくせに無視するのか。なんてことをこの状況下で思ってしまう俺はどうにも救いがたい。
これは人生最大の危機だ。冷静になれ、と言い聞かせる。
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