67人が本棚に入れています
本棚に追加
胸が焦がれるのではない。
彼と同じ名前の花を見ると、自分が常にその状態であることに気づくのだ。
思い出すのではない。頭に浮かぶのでもない。常に、もう常にだ。彼が胸の中にいることが日常になってしまっていた。
8月。
明日海は友人の杏と共に、杏の実家を訪れていた。
「ちょっと待って、この食パン齧ってるのって私?」
「そうだよ、明日海。たぶん、その瞬間を狙ったんだろうね」
「うわ、全然記憶ない。でも、確かにこの頃、常になにか食べてた」
「面白いからこれもキープしておこうよ」
「面白さを求められても・・・」
明日海は膝をかかえてフフ、と笑った。そして、目の前にある段ボールの中の2冊目のアルバムを手に取る。
「結婚式、深ちゃんも来るんだよね?なら深ちゃんも写ってる写真探さないとね」
「ごめんね、私こういうの未だに1人じゃ決められなくて」
「ううん、おめでたいことだもん。むしろ光栄だよ。一生に残る思い出になるようにしなきゃね」
来月に控えた杏の結婚式のスライドショーに使用する写真を一緒に選んでほしい、と杏に頼まれ、数年ぶりに訪れたここは懐かしい匂いがして、何度もこの部屋で十代ならではの女子トークを繰り広げたことを思い出す。杏が大学に入るまで生活していたこの部屋は、未だに学習机が置いてあった。
「写真もだけど、落ち着いたら、いや、忙しくなる前に全部処分しなきゃな。いつまでもここに置いておけないし、新居にも持っていけないし」
そうだね、と言いかけて、やめた。隣の部屋で重いものをトン、と置いたような音が聞こえた。
「あ、ごめん、ご家族の方だよね?うるさかったかな?」
「あ、大丈夫。多分、弟」
「え、弟?・・・あ、そうか、いたよね」
「うん、お盆だからね、帰ってきてるんだ」
「部屋、隣なんだね」
「うん。それよりさ、深ちゃんの写真。深ちゃん、美人なのにあんまり写真好きじゃなかったもんね」
「でも、もう夜だし」
「ううん、ほんと、気にしないで。あ、あった!深ちゃんの写真」
「わ、懐かしい!深ちゃん、髪の毛短かったねえ」
「よし、これもキープ!」
「後で深ちゃんに確認してもらおう。そういえば、BGMは決まった?」
「もちろん。全部GLAYって決めてる」
「好きだったもんね」
「ねえ、明日海、今日泊っていきなよ。稲荷屋覚えてる?あそこ、店主が息子さんに代わって、またお店始めたんだよ!」
「え、あのラーメン屋さん?懐かしい!みんなでよく寄ったよね」
「お母さんには夕飯いらないって言ってくる。久しぶりに行こう!お酒も呑んじゃおう!」
「はあ~、ラーメンに餃子にビール、杏仁豆腐。さすがに30過ぎるとおなかいっぱいだわ・・・」
風呂上りの杏がベッドに大の字に寝転がる。
「高校生の頃は確かあれに炒飯シェアしたよね」
「したした。体重も今より5,6キロあったよね。アオハルってやつですね。あ、その辺のクリームとか、適当に使って」
「ありがとう」
「どんな感じなんだろう、苗字が変わるとか、子供ができて家族が増えるとか・・・」
杏は今にも眠ってしまいそうな声で呟いた。
そんな杏を見て微笑みながら、明日海は杏のスキンケア用品を借りる。
「結婚かあ・・・」
すでに後ろから聞こえる杏の寝息を聴きながら、明日海は顔のスキンケアを続けた。
夜中にドアの閉まる音にふと目が覚める。ビールはジョッキで3杯ほど吞んだのでトイレに行っておいたほうが良い気がした。そっと部屋を出て1階のトイレに向かった。場所は記憶している。
ふと台所にぼんやりとした灯りがついているのに気付いた。人の気配がするので昼間挨拶した杏の両親か、それとも・・・
トイレを借りる旨を一声、と思い覗き込むと、20代半ばくらいの男性がコップに入った水を飲んでいた。こちらに気づき、目を見開いたように驚いているのが分かった。
目元が杏に似ている。茶髪で白のTシャツに黒いスウェット。杏に似たアーモンド型の目。杏の弟だ、と思った。
「あの、トイレ、借ります、ね」
トイレの方向を指さし、軽く頭を下げる。向こうも軽く頷くように頭を下げた。と同時に、少し笑った気がする。その様子を少し疑問に思いながら、トイレに入った瞬間気づいた。今、自分は杏の高校生時代の体操着を着ている。ご丁寧に胸のゼッケンに杏の苗字である「羽柴」と大きくプリントされている。こんなもの、よくとっておいたものだ。もうすぐ34歳になる自分が着るとまるでコントである。これを見て笑われたのか、と明日海は頭を抱えた。
翌朝。
ケラケラ笑う杏に、明日海は口をへの字にしながら着替える。
「会ったの?弟に?」
「もうバッチリ見られたよ。貸してもらってなんだけどさ、まるでコントの衣装じゃん!」
「せめてコスプレだよ」
「誰も見たくないよ」
最初のコメントを投稿しよう!