壊れかけたラジオ

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 すぐ目の前の信号が赤色を示していることに気付いたのは、運転する車が横断歩道にはみ出した時だった。私が慌てて踏んだブレーキの衝撃によって、助手席に置いてあった通勤鞄が足元マットに落ちた。  雨の夜の交差点、左側から青信号によって右折しようとしていた車の運転手がぎょっとした顔で私を見て走り去った。  ワイパーがフロントガラスを拭くたびに視界はクリアになり、反比例して自分の惨めさが積もっていく。今も心臓がバクバクと音を立てている。赤信号に気付かないなんて、今までの私では考えられない事だった。 『それでは次のお便りです』  付けっ放しのカーラジオから、明るい声が響く。 『死ぬ前に食べたいものは何ですか? というご質問をいただきました』  滑舌のよいDJが、番組に届いたメッセージを読み上げていく。ようやく信号が青になり、私はゆっくりとアクセルを踏んだ。  DJの声と車のルーフを叩く雨音が、私の焦りを少しずつ浄化させていくようだった。死ぬ前に食べたいもの。ハンドルを握りながら私はマスクの中で小さくつぶやく。  そういえば、高校生の頃に家族でそういった話題になった時、私は意気揚々と「かつ丼」と答えたのだった。もう何年も食べていないかつ丼の味を急に恋しくなった私は、国道沿いにある和風ファミレスに向かった。  仕事帰りの午後十時、深夜まで営業しているファミレス店内は混み合っているようだった。明るく出迎えた店員に「おひとり様ですか」とにこやかにテーブル席に案内された。  季節限定のメニューを紹介されたものの、注文するメニューは決まっている。タッチパネルでかつ丼セットを注文した後、通勤鞄に手を突っ込んでスマートフォンを探した。先ほどの交差点で座席から落とした鞄の中は、少し散らかっている。  スマホには恋人からメッセージが届いていた。新幹線に乗らなければならない距離に住んでいる恋人とは、以前ほど自由に会えなくなっていた。それでも、私達は現代の技術を通して自由に会話をしている。  恋人にメッセージを返信していると、やがてトレイに乗ったかつ丼が運ばれてきた。サクサクに揚がったカツと出汁を吸い込んだ溶き卵が融合し、それを白米と一緒に食べる。疲れた身体にそれらが染み入った時、ふとラジオの声が頭の中で反芻した。  ――死ぬ前に食べたいものは何ですか?  私は、今、死ぬ前に食べたいものを口にしている。  遠く離れた席からは若いグループの笑い声が聞こえてくる。私の座る横の通路を、カップルが手を繋いでフロントへと歩いていく。「ありがとうございまーす」と店員の声が聞こえる。口の中で、衣の歯触りと共に肉汁が広がっていく。目の前に置かれた飛沫防止のアクリル板には、私の疲れた顔が映っていた。  そういえば、何かを食べたいと思ったのは久しぶりだった。そして、何かを食べておいしいと思えたのも。  テーブルに置いていたスマホが振動する。何気ない会話のやり取りを往復しながら、私がかつ丼を食べている事を伝えると、恋人は「まじかよ、うける」と文字の上で笑った。  SNSを開き、一歳になったばかりの子供の写真を載せている友人の投稿に「いいね」ボタンを押す。画面をスクロールして、次々と現れる写真に「いいね」を繰り返しながら、私は日常に眠る仄暗い自由を指先に感じ取っていた。  かつ丼を食べ終え、何かに導かれるように伝票をフロントへと持っていくと、感じのよい店員が笑顔で会計をしてくれた。お釣りを渡される際、彼女のしている青色のビニル手袋が手先に触れた。店の出入口に設置されたアルコールを使わないまま、私は笑顔で「ごちそうさまです」と会釈し、駐車している車に乗り込んだ。
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