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◇
日常は、連続の積み重ねだ。多少の変化はあっても、基本的には変わらない平和を繰り返す。その平和な連続に、この頃少しの違和感が出てきたように、松谷は感じていた。
それは小さな風穴のような気がするが、松谷にとっては首を傾げずにはいられないような変化だ。例えば、会社に行くのが楽しくなったり、水曜日と土曜日を待ちわびたり、まるで運動会や遠足を前にして落ち着かない、子供の頃のようだ。
そして、そこには里見が必ず関わっている。
里見とは、順調にカラオケ教室を続けている。少しは音程が取れるようになってきたが、やはり口の開きが小さいからか声が出ていなし、そのせいでテンポも乱れている。
松谷の指摘に、里見は素直に従うのだが、口を大きく開ける事だけは、どうしてもなかなかできないでいる。
そのくせ、仕事の時は別人のように、きっちりと丁寧で抜かりのない課長だった。
こんな里見課長を知ってるの、俺だけなんだろうか。
その想いがますます松谷を落ち着かない気分にさせていた。
いつものようにタイムカードを押してからデスクに向かうと、もうパソコンを立ち上げて仕事をしている里見と目があった。まだ誰も来ていない。最近では、一番早い里見の次に出勤するのは松谷になっていて、前上司の村上からは散々嫌味を言われる。
『俺の時はさ、いっっつもギリギリだったくせに』
別に、村上のせいではないし、里見のおかげでもない。ただ早く目が覚めるから、早く来ているだけなのだが、それでも、この二人だけの朝の時間は松谷をますます浮き立たせた。
「おはよう」
里見の静かな声に、挨拶を返すと、里見はそのまま何も言わずにパソコンのディスプレイに目を落としている。カラオケの時は、もう少し饒舌だ。今は二人だけなのだから、もう少しほぐれた顔を見せてくれてもいいのに。
「課長」
「何か用事か?」
「いえ、特には」
まるで取り付く島もない。どこか心細いような寂しさに包まれながら、仕方なく松谷も仕事の準備にかかる事にする。
今日の配送ルートと伝票を確認して、時間を合わせて新製品の営業に行けるスケジュールをたてる。今、売り込みをしているのは、店舗名などを印刷したプラスチックカップや容器だ。勿論、割高にはなるが、ライバルとの差別化にもなる。
興味を持ってくれていた業者をピックアップして、今日は二店程回れそうだ。
――今日は、あのドーナツ屋行くか。
兄のカラオケ店近くにある、普通に美味いドーナツ屋だ。
そんな事を考えている時だった。
「松谷君」
不意に、里見に呼ばれて目を上げると、まっすぐな目で里見がこちらを見つめているところだった。感情の浮き沈みを見せない静かな目は、ちょっと綺麗だった。
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