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それはつまり、この前は俺が怒っていると思ってサボったのだろう。――俺の事、その間に考えてくれてたんだ?
それは、自然に笑ってしまうくらいに心地よい感情だった。自分が里見を気にしていた時に、相手も自分を気にしてくれてたなんて、そんな嬉しい事。
……嬉しい? 何でだ?
里見は会社の上司で、音痴な事を知ってしまって、たまたま克服に付き合っているだけだ。ただそれだけだ。ちょっと、キスしてしまっただけで……。
なんだろう、ひどくいびつな気分だ。
間違った答えをわざと答えているような気分。なんだってこんな気分になるんだ。
「松谷君」
不意に呼ばれて、何故か心臓が跳ね上がる。
「はいい?」
「俺は融通がきかないし、固いから付き合いにくいだろうが、君さえよかったら、これかもよろしく頼む」
まるで台詞のように一気に言い放って、里見はそそくさと背を向けた。照れてでもいるのだろうか。
瞬間、押さえきれない衝動に駆られる。
その表情を、見たい。
肩を掴んで力づくで引きよせると、バランスを崩した里見が微かな悲鳴をあげながら、松谷の胸に倒れてくる。唇と同じような温かい熱に、また心臓が跳ねた。
――ヤバイ。これは、ヤバイ気がする。
この感情には覚えがある。初めては中学の頃、それから長い付き合いをしている感情だ。まさか、男に抱く事になるとは思わなかったが。
「松谷君?」
責める里見の視線を見下ろしながら、また頭の奥でヤバイと声が聞こえる。どこか他人事のようにそれを聞きながら、浮ついた唇を揺らした。
「里見課長は真面目で、優しいんですきっと。融通がきかなくて硬いなんかじゃなくて」
――俺とは全然違うひと。だからきっと惹かれた。……分かってる、俺、このひとが好きなんだ。
そうでなければ、キスなんてできない。
里見は驚いたように瞬いて、それから、ふわりと笑った。気にしている歯並びが見えたが、それさえも忘れているようだった。
「ありがとう、そんな事言ってくれて」
見た事のない柔らかな笑顔だった。笑わない男の笑顔の威力は半端じゃない。背中から抱えていた体を強引に振り向かせて正面から抱きしめると、苦しそうに咳き込むのが分かる。慌てて力を弱めると、照れくさそうに俯いた里見の耳の端が、確かに赤い。
――ヤバイ、これ、今告るな、俺。
止められない感情は、浮かれているからだ。
「里見さん」
さりげなく、役職を呼んでいない事に気付いているだろうか。顔を上げた里見が、まっすぐに松谷を見つめる。どこか濡れたような黒目に、また心臓が跳ねた。
「俺」
貴方が好きになりました。
そう言うはずだった松谷より一瞬早く、里見が口を開く。
「そんな事言ってくれたのは、村上以来だ」
それはもう、嬉しそうに、幸せそうに。
その一撃で、松谷の戦闘意欲は全てかき消されてしまった。
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