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その里見が、今、目の前で一人カラオケをしている。しかも、かなり、上手くない。
「松谷君、何故君がここに?」
「あーちょっと、臨時バイトです」
このカラオケ店は、兄が経営する店だ。時々、人数が足りない時などに、こうやって手伝いがてらのバイトをする事があるのだ。細々とやっている穴場的店なので、知り合いに会う事もなかったのだが。
まさか、よりによって、里見課長とか。
「バイトは禁止されているはずだが」
はい、キター。
「兄貴の店なんですよ。だから、バイトっていうか、手伝い、みたいな?」
「金銭を受け取っていれば、バイトだろう」
確かに、そうなのだが、これは厳密に言えば、バイトというより手伝いだ、という名目で誤魔化してきたのだが、真面目な里見は見逃してくれるつもりはないらしい。
これは、会社に報告されるのだろうか。きっとそれは専務にいく話しで、そんな面倒は勘弁願いたい。
松谷は、前髪をかきあげて、わざとらしく微笑んでみせる。アイドル俳優の、誰だかに似ていると良く言われる微笑には自信がある。が、それが里見に通用する訳もない。
「すみません、でも、もう今日で辞めるから、見逃してくれませんか? ほら、俺も課長がカラオケ練習してたの秘密にしますから」
途端に、里見はがっくりと肩を落とし、うなだれてしまった。里見といえば、いつも背筋を伸ばして何事にも揺るがないような姿しか見た事がなかったから、松谷は一瞬呆気に取られてしまった。
「そうか、もしかして、聞こえたか?」
「あー、はい」
「……音痴だろう?」
誤魔化してもいいが、そんな誤魔化しが通用するレベルの音痴じゃない気がする。何より多分、里見は自覚しているのだ。
「ええと、その、あまり上手くはないですね。すみません」
「構わない、分かっているから。しかし、どうすれば上手くなるかも分からない」
そう呟くと、里見はガラステーブルの上にマイクを置いて、小さく息をついた。
慣れない営業にきても、愚痴のような事を言っているのは聞いた事がない。里見は真面目なのだ。その真面目な里見が、どうやら真面目に音痴を気にしている。
音痴を自ら自覚している音痴は珍しい。自分で気付けるなら、音程は外れないし、直せるからだ。きっと、いつだか他人から指摘されたのだろう。それを気にしているのだろうか? 何にしろ、これは松谷にとっては悪くない情報だ。
「里見課長。取引しませんか」
「取引?」
「俺のバイト、見逃してくれる代わりに、俺でよかったら、歌の練習付き合いますよ。そこそこ上手い方なんで、俺」
真面目な里見が頷くかどうかは、かなりリスキーな賭けではあった。余計に怒られる事になってもおかしくない。
けれど、暫く松谷の顔を見つめた里見は、意外にもゆっくりと頷いたのだ。
「よろしく頼む」
頭の天辺が見えるくらいに、ふかぶかと頭を下げて。
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