音痴な上司の攻略法

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◇  松谷カラオケ教室は、毎週水曜日か土曜日の夜に開く事にした。単にお互いの時間が都合よく会いやすいのがその曜日だったからだが、里見はいたく恐縮していて面白かった。 「休みの日まで君に迷惑をかけるのは申し訳ない」  確かに、貴重な休みの夜を、上司と過ごすのは楽しくないだろうが、この件は別だ。バイトの口止めもあるけれど、何より真面目に淡々と仕事をこなしていく里見が、カラオケの時だけは全く上手くこなせないのが面白いのだ。  会社では里見が上だが、この時ばかりは松谷の方が上。それは、松谷の自尊心を刺激し、優越感をくすぐる。 「だから迷惑じゃないですよ。さて、ちょっと歌いますか?」  とはいえ、松谷はボイストレーナーでもなければ正式な先生でもない。ただ、ちょっと歌うのが好きなだけなので、専門的なアドバイスなどはできない。それでも、分かっている事はあったから、早々にそれは伝えた。  里見の選ぶ歌は、ことごとく難しすぎる。  里見としては、好きな歌を選んでいるのだろうが、それは広い音域が必要だったり、高音が多かったり、じっくり聴かせるバラードだったりと、なかなかにハードルが高い。確かに、どうせなら好きな歌を歌えばいいのだが、里見の事情がそれを許さなかった。  そもそも、音痴ゆえにカラオケが好きではないという里見が、松谷に頭を下げてまで練習しているのには理由があるのだ。 『専務から、忘年会ではトップで歌うように指示されているんだ』  心底、弱ったという顔をして呟いた里見に、松谷はご愁傷様と内心で手を合わせた。忘年会は毎年宴会場を借り切っての飲み会になる。少ないとはいえ、社員一同の前で歌を歌うのは、好きじゃないときついだろう。まして、里見のように音痴なのでは尚更に。  それにしても、だ。専務は、何故わざわざ里見にそんな事を言ったのか。それは疑問として頭にあったが、まだ聞けずにいる。普通ならただの軽口なのだろうと流せるのだが、里見の場合、異動をさせられた経緯もあって、松谷はそこに専務の悪意がある事を、なんとなく感じ取っていた。  そう思って、社内で気にかけてみると、専務の里見への当たりはきつかった。  明らかに、嫌われている。  だとすれば、忘年会のカラオケ指示も嫌がらせの一環なのだろう。
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