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このカラオケ教室も、四度目だ。そろそろ専務との関係について聞いてみたいと思いつつも、タイミングをはかれないでいた。
「松谷君、この間君に勧められた曲を覚えてきたんだが、歌ってみていいかな」
里見の言葉で、ふと我に返ると、里見は真剣な顔で一枚のメモ用紙を松谷に見せながら、そこに書かれた曲名を指差している。
このメモは松谷が、少しでも歌いやすそうなものを選んでおいたものだった。何曲か選んだのは、音程の高低差が少なく、そこそこのアップテンポで、忘年会向けの歌だ。里見も知っていそうな有名なものを選んだつもりだったが、全てなんとなくでしか知らないという事だったので、どれかを選んで覚えてくる事を宿題にしていたのだ。
それを真面目に実行したらしい里見は、その中でも一番スローテンポの曲を選んでいた。
「いいんじゃないですか? 普通にいい曲だし、音程も高くないし。歌ってみましょうか」
操作パッドにナンバーを打ち込むと、里見は独り言のように呟いた。
「普通に、いい曲……」
「なんですか?」
「――……いや、なんでもない」
おもむろにマイクを手にした里見は、立ち上がり、流れはじめたメロディーに合わせてそっと歌い出した。
うん。まあ、そんな急に上手くなる訳ないし。
初めて聞いた難関曲よりはましに聞こえるが、やはりメロディーはずれているし、テンポが遅れたり先に行ったりと不安定だ。
ただ、あまり知らないと言っていた歌なのに、里見は最後までつまる事なく歌いきって見せてくれた。この数日で、懸命に覚えたのだろう。歌い終えて、疲れたようにソファにかけた里見は、うかがうように松谷を見つめた。一重瞼の涼しい目元は、一見冷たそうに見えるが、それが細まるのは不安の為なのだという事は、この数回で分かっていた。
「いいんじゃないですか? 練習したら、きっともっと良くなりますよ」
「そうか」
あからさまにほっとしたように息をつく里見は、まるで親に褒められた子供のように無邪気な笑顔を見せた。
――うわ、笑った。
何せ里見は笑わないとして有名なのだ。松谷も、今初めて見る満面の笑みに、思わずどきりとする。
――笑えるんじゃん、この人も。
いつもの真面目な里見と印象が違う笑顔に、松谷は見入ってしまった。それに気付いたのか、里見ははっとしたように口元を押さえて俯いてしまう。笑顔は一瞬で消えた。
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