音痴な上司の攻略法

6/37
前へ
/37ページ
次へ
 このカラオケ教室も、四度目だ。そろそろ専務との関係について聞いてみたいと思いつつも、タイミングをはかれないでいた。 「松谷君、この間君に勧められた曲を覚えてきたんだが、歌ってみていいかな」  里見の言葉で、ふと我に返ると、里見は真剣な顔で一枚のメモ用紙を松谷に見せながら、そこに書かれた曲名を指差している。  このメモは松谷が、少しでも歌いやすそうなものを選んでおいたものだった。何曲か選んだのは、音程の高低差が少なく、そこそこのアップテンポで、忘年会向けの歌だ。里見も知っていそうな有名なものを選んだつもりだったが、全てなんとなくでしか知らないという事だったので、どれかを選んで覚えてくる事を宿題にしていたのだ。  それを真面目に実行したらしい里見は、その中でも一番スローテンポの曲を選んでいた。 「いいんじゃないですか? 普通にいい曲だし、音程も高くないし。歌ってみましょうか」  操作パッドにナンバーを打ち込むと、里見は独り言のように呟いた。 「普通に、いい曲……」 「なんですか?」 「――……いや、なんでもない」  おもむろにマイクを手にした里見は、立ち上がり、流れはじめたメロディーに合わせてそっと歌い出した。  うん。まあ、そんな急に上手くなる訳ないし。  初めて聞いた難関曲よりはましに聞こえるが、やはりメロディーはずれているし、テンポが遅れたり先に行ったりと不安定だ。  ただ、あまり知らないと言っていた歌なのに、里見は最後までつまる事なく歌いきって見せてくれた。この数日で、懸命に覚えたのだろう。歌い終えて、疲れたようにソファにかけた里見は、うかがうように松谷を見つめた。一重瞼の涼しい目元は、一見冷たそうに見えるが、それが細まるのは不安の為なのだという事は、この数回で分かっていた。 「いいんじゃないですか? 練習したら、きっともっと良くなりますよ」 「そうか」  あからさまにほっとしたように息をつく里見は、まるで親に褒められた子供のように無邪気な笑顔を見せた。  ――うわ、笑った。  何せ里見は笑わないとして有名なのだ。松谷も、今初めて見る満面の笑みに、思わずどきりとする。  ――笑えるんじゃん、この人も。  いつもの真面目な里見と印象が違う笑顔に、松谷は見入ってしまった。それに気付いたのか、里見ははっとしたように口元を押さえて俯いてしまう。笑顔は一瞬で消えた。
/37ページ

最初のコメントを投稿しよう!

48人が本棚に入れています
本棚に追加