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あの人には、もう会えない。
切なさがこみ上げる歌詞に、心揺さぶるメロディー。名曲とは時を経ても、人の心に響くものだ。
しかし。歌というのは、歌う人間によって、こうも変わるものなのか、と松谷は小さく息をついた。
耳を揺さぶるのは、松谷が知っている歌とはとてもとは思えないほどに主旋律から外れたメロディーに、テンポの遅れた歌詞が乗っている。こういう言い方は良くないとは分かっているが、これは言わずにいられない。
つまり、この歌声の持ち主は音痴なのだ。
この部屋の客は男性一人だと聞いていた。最近では一人カラオケも珍しい事ではないと、言っていた兄の言葉を思い出す。一人で来るのは、ストレス解消や本当に歌うのが好きな人、それから人に聞かれたくない人が練習に来るというパーターンが主らしい。どうやらこの部屋の客は、最後の一つに当てはまるのだろう。
部屋のドアをノックして開けると、店員が入ってきた事に怯んでか男は歌うのをやめた。
「お待たせしました、ウーロン茶です」
トレイからグラスを下ろして、兄に教えられた通りの言葉を口にする。
「他にご注文はございませんか?」
マイクを握り締めて俯いていたスーツの男が、そっと顔を上げる。そしてその瞬間、松谷と男はお互いに目を見開き、薄く唇を開いた。驚きに、思わず声になる。
「松谷君?」
「里見課長?」
それは、松谷が勤める会社の上司だったからだ。
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