開拓と鎌

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「だからさ、君の前には四十年近く歩かなければならない社員人生という道が広がっているわけ。舗装なんてされていない、小石と雑草だらけの獣道を自分の手で切り拓かなければならない。俺達先輩は開拓作業を手伝うよ。でも最後はな、北野。君自身が道を作り上げるんだ。大変だけど一緒に歩いて行こう。同僚として。先輩と後輩として」  俺の同期である伊原が熱弁を振るった。新人女性社員の北野は無表情のまま微動だにしない。両者の凄まじい温度差が面白いので俺は黙って見守った。しばらくの沈黙の後、そういうことだ、と伊原が間を埋めるように付け加えた。不器用な奴。それでも北野は無言を貫く。僅かに首を傾げた、かな。痺れを切らした伊原が、ねえ、と呼び掛けた。 「北野、聞いてる? 俺、今とてもいいことを言ったんだけど」 「いいこととか自分で言うな」  ツッコミを入れる。いいことだろ、と伊原は反論した。 「伊原さぁ。お前が仕事に対して熱心なのは別にいいけど、価値観を押し付けるのはどうかと思うよ」 「押し付けてない。一緒に頑張ろうって伝えただけ」 「新人さんからしたら熱弁なんてプレッシャーにしかならないの。ごめんね北野、面食らったよね。深刻に捉えなくていいよ。一緒に頑張ろうってところだけ受け取って」  俺の言葉に今度ははっきりと首を傾げた。目の前の皿に視線を落としている。食べかけのサラダが乗っていた。味について考えているわけではないだろう。あの、と静かに彼女は切り出した。 「その道を熱心に切り拓く気はありません」  反射的にそっぽを向く。吹き出しそうになったから。伊原は目を見開いた。しかし言葉が出て来ない。奴が十数秒後に発したのは、え、の一音だけだった。馬鹿みたいな反応に俺の腹筋が限界を迎える。笑うな、と叱られた。 「笑うだろ。二人の温度差が酷すぎて風邪引くわ」 「何だお前。寒暖差アレルギーか」 「違うわ。俺のことはいいから北野と話せよ」  伊原が息を吸い込む。だが期待の新人は、すみません、と手の平を向けた。先手必勝。見事でござい。 「私、仕事に対して全く熱意を持っておりません。だから申し訳ありませんが、伊原さんのお話に働きを以て応えることは出来ません。熱く語られても無意味であると、はっきりお伝えするのがせめてもの誠意だと考え、恐れ入りますが遮らせていただきました」  俺は両手で顔を覆った。笑い過ぎて顔が痛い。何だこの新人は。面白すぎる。俺の隣で伊原が拳を震わせた。まあまあ、と肩に手を置く。 「真面目でいい子じゃないの。自分は熱い仕事人にはなれないから語らなくていい、なんてさ。わざわざ言わないよ。しかも今まさに熱く語った当人に向かって。それだけお前に真正面から向き合ってくれているの。大体、怒るのは違うぞ伊原。仕事に対する価値観は人それぞれなんだから。お前の価値観と違うからって怒るのは厚かましい」 「田中。お前、どっちの味方だ」 「北野」 「同期を裏切るのか」 「同期だからっていつでも味方をしてもらえると思うな」  くそぉ、と伊原は項垂れた。ドンマイ、と背中を軽く叩く。北野は無表情のままサラダを頬張った。今時の子、なんて括りでは収まらない器だ。顔を上げた伊原は眉を吊り上げた。しかし今度は俺が奴の口を押さえた。 「お前、先輩に暴言を吐いておいてサラダなんて食うな、って言おうとしただろ」  同期は勢いよく何度も頷いた。 「別にいいじゃん。俺達、二期しか違わないんだよ。偉そうに仕事について語ったり、サラダを食うなってそれこそ暴言を吐くなんてよろしくない。もっと仲良く喋ろう」 「ちなみに私、大学院卒なのでお二人と年齢は一緒です」 「あ、そうなの。じゃあ俺にはタメ口でいいよ。職場ではどうしても厳しい人達がいるから難しいけど、こういうプラベートでは対等に接してくれていいから」 「慣れたらそうするね」 「もう慣れたんかい」  くそぉ、と再び伊原が項垂れた。今度はどうした。置いてきぼりにされて寂しいか。 「伊原。お前だって間違っているわけじゃない。さっき俺も言ったけど、マナーや上下関係に厳しい人だってたくさんいる。今日みたいな展開になったらもっとぶちぎれる奴だっているだろう。俺は感情に任せて怒る人間が大嫌いだけど、好き嫌いだけでは社会の中で生きていけない。だから時には我慢も必要だ。北野、そこのところは覚えておくといいかもね。まあ言われるまでも無く知っているかもしれないけど。それにさ、伊原は君の面倒を見たかっただけなんだ。暑苦しいし価値観も違うけど、こいつの気持ちをわかってもらえないかな」  よし、上手く先輩面を出来た。同期のフォローもした。我ながらなかなか良い立ち回りではないか。そうですね、と北野が一礼した。 「伊原先輩、失礼しました。ありがとうございます」 「伊原。いつまでもふてくされてないで顔を上げろよ。下を向いていたって床しか見えないだろ。そんなの全然楽しくない」  もう一度背中を叩く。ゆっくり、ゆっくりと同期は体を起こした。目が血走っている。 「ずるい」  俺に向かってぼそりと呟いた。ん、と聞き返す。ずるい、と低い声で繰り返した。 「ずるい。ずるいぞ田中。何でしれっと先輩面をしているんだよ。北野とタメ口をきくほどあっという間に仲良くなったかと思ったら、返す刀できっちり先輩としてもアドバイスを送ってさ。俺の熱意は伝わらなかったのにお前の話には素直にわかりましたって応じたぞ。ずるい。俺も先輩面をしたい。いつか北野に、あの時伊原さんに諭されたおかげです、ってお礼を言って貰いたい」  伊原のこういう、格好悪さを曝け出してしまう辺りが先輩面を出来ない理由だと思う。だけど指摘したってなおるものじゃない。こいつは一生懸命頑張って、自分なりに全力を尽くして、結果格好悪くなっているのだ。そんなものを外から軌道修正するなんて不可能だ。故に俺には宥めることしか出来ない。 「悪かったよ、お前の言いたかったことや意図を横取りしちゃって。俺じゃなくてお前のアドバイスだもんな。大丈夫。北野もさっき、伊原に向かってありがとうって言っていたからわかってくれているよ。な、北野」  同意を求めると新人は静かに頷いた。でも唇を噛み締めている。おい、頼むから今は吹き出さないでくれ。いくら死ぬほどダサくても、笑ったりしたら伊原がもっといじけてしまう。 「いや、納得いかない。大体、田中にはすぐタメ口をきいたのに、俺にはまだ敬語じゃないか。何でお前ばっかり仲良くなっているんだ」 「それは仕方ないだろう。俺はタメ口でいいって言ったよ。でもお前はいいって言ってない。北野がお前に敬語を使うのはむしろ気を遣っている証拠だ。言いがかりにも程がある」 「田中君の言う通りです。私、伊原さんからタメ口の許可を得ていません。それに、どちらかと言えば伊原さんは後輩からそういう生意気で馴れ合った振る舞いをされるのは嫌いかと存じます。これ以上怒らせるのも申し訳ないので、安牌をとって敬語を使っています」  双方向から正論の鉛玉で蜂の巣にされた伊原は、くそぉ、と三度項垂れた。とうとう北野が吹き出す。幸い、伊原は床を見ているので気付かなかった。しかし段々面倒臭くなってきた。こいつ、もう放置していいか。会話に混ざりたくなったら勝手に戻って来るだろう。 「北野はさ、仕事は生きる術って割り切っているの?」  俺の問いに、タッチパネルで酒を探しながら頷いた。 「私、夢があるの。小説家になりたいんだ」  ほう、と感心の声をあげる。夢があるのはいいことだ。目標があれば頑張ろうという気になる。一生懸命生きるのは素晴らしい。俺なんか仕事して酒飲んで寝るだけだもんな。 「あ、ごめん。ハイボールを頼んでもらえるかな」 「濃い目もあるけど」 「じゃあそれで」  北野自身はウーロン杯を選び、注文完了のボタンを押した。 「小説家か。大変じゃないの」 「志す人は多いけど、ものになるのなんて本当に一握り。だから書いて、書いて、書きまくるしかない。面白いかどうかなんてわからない。読んだ人が判断することだし、自分にとっては渾身の作品でも他人からすれば鼻くそみたいな内容かも知れない。絶賛する人がいる一方で酷評の声が上がったりもする。私に出来るのはひたすら書くだけ。それだけなんだ」  酒を一口飲む。北野は空になった自分のグラスを見詰めていた。目の中で炎が燃えている。話題が仕事だった時より俄然口数も増えた。本当に、書くことに対して全力で向き合っているのだな。 「どのくらい書くの。量とか、本数とか」 「今は八本書いているよ。長編を一本、短編を二本。あとはあらすじだけ書き留めてあるのが五本」 「凄ぇな。書きながら混乱しそう」  北野がスマートフォンを取り出した。俺に画面を示す。ドキュメント・ファイルが複数保存されていた。これが長編、とファイルの一つを開く。いくらスクロールしても終わらないほどの文章が記されていた。こっちがあらすじ、と別のファイルを開く。二度スクロールしたら終わりを迎えた。 「ここから話を膨らませるの」 「最初にあらすじを書くの?」 「まずはネタを書き留めるんだ。街中で見かけた変な看板とか、こうだったら常識からずれているなって思い付いたこととか、とにかく全部メモする。そこから話を膨らませて、あらすじに起こしてみる。あとは肉付けをして小説の形に纏めるの」 「よく思い付くな。一日どのくらい書くの?」 「今は原稿用紙五枚分くらいだよ。就職してまだ一ヶ月だからペースが掴めていないんだ。院生の頃は暇だったのもあって、一日二十枚から三十枚くらいは書いていたけど」 「俺なんて卒論を二十五枚書くのに半年かかったよ」 「論文と小説じゃあまた違うけどね」  ふと横を見ると伊原が背もたれに全体重を預けていた。黙って天井を見上げている。いつの間にそんな体勢になったのか、隣に座っているのに全然気付かなかった。そうか、俺が身を乗り出しているからか。素知らぬ顔で、よう、と声を掛ける。無表情がこちらを向いた。 「楽しそうだな」  声に張りが無い。おう、と親指を立ててみせた。楽しそうだな、とまたも繰り返す。山びこの精でも宿ったか。 「楽しいよ。物書き志望の人なんて初めて会ったもん」 「俺が仕事の話をしていた時は、一言も乗って来なかったくせに」  乗られたらそれはそれで鬱陶しがるだろうが。しかし今のこいつを刺激したって怒らせるだけ。楽しくはならない。まあまあ、と再び宥める。流石に気まずさを覚えたのか、私トイレ、と北野が席を外した。 「何だよ、俺が落ち込んでいるのに二人は盛り上がっちゃってさぁ。俺なんて邪魔なだけなんだ。どうせ空気の読めない暑苦しい奴としか思われていないんだ」  その通り。自覚があるのはむしろ意外だ。 「いじけるなって。なあ伊原、北野にも熱意はあるんだよ。それが仕事じゃなくて自分の夢に向いているだけ。お前の言う、社員としての道とやらを熱心に切り拓く気は無いみたいだけどさ。小説家に向かって一生懸命進んでいるんだ。職場の先輩になった俺達がしてあげられるのは、あの子が夢に突き進めるよう仕事の負担を軽くすることくらいじゃないの。皆部署が違うから直接支えるのは難しいけど、こうやって飲みに行ったり、愚痴を聞いてあげるだけでもちょっとは役に立てると思うよ。仕事に一生懸命なお前からしたら、夢を追い続ける北野はUMAくらい理解不能な存在に思えるかも知れない。でも、例え相手がチュパカブラであったとしても、後輩のために手を差し伸べるのが先輩だろ」 「お前、仲良くなった後輩をチュパカブラ呼ばわりするなよ」  伊原の指摘は尤もだ。ついうっかり例えを間違えた。辺りを見回す。驚いたことに北野は既に俺の背後に立っていた。おう、と声が漏れる。 「お早いお戻りで」 「誰がチュパカブラだ」  軽く小突かれた。ごめん、と謝る。 「頼りにならない先輩達ですね。でも入社してから今日が一番楽しいかも」 「だそうだ。な、言った通りだろ伊原。俺達でも少しは北野の役に立てるのさ」  伊原はもじもじしていたが、わかったよ、と頭を掻いた。 「俺が社員の道を切り拓くのと同じように、北野は小説家への道を切り拓くんだな。いいだろう、認めてやる」 「何様だ。あと、道を切り拓くって表現を多用しているけど気に入ったのか? 格好良くも何とも無いぞ」  北野が腰掛ける。伊原は追加の酒を注文した。 「まあ楽しくやろうよ。同僚になったのもご縁だし、期は違うけど歳も一緒なんだしさ。俺が育てたって先輩面したいのも、仕事に興味無いからどうでもいいやって聞き流すのも各々の自由だけど、とにかく仲良くやりましょう」  俺の言葉に二人がそっぽを向く。何だよ、と問い掛ける。 「いや。田中の、僕はいい人ですって主張が強くて背中が痒くなった」 「ちょっと今のはくさかったかな。いいことを言ってくれたけど、いいこと過ぎて逆に入ってこない」 「失礼な」  鼻を鳴らす。そこに三人分の飲み物が纏めて運ばれてきた。揃ってグラスを握り締める。じゃあ、と伊原が口を開いた。 「改めて、北野との初めての飲み会と、田中のいい話に、乾杯っ」 「うるせぇ」 「乾杯。これからよろしくお願いします」  二軒目に誘うと北野は快諾した。居酒屋のカウンター席に並んで座る。伊原は一軒目で飲み過ぎて、道の真ん中に寝そべり俺は社長になるんだと絶叫した。いっそ車に轢かれてしまえと殺意が湧いたが、仕方無いのでつかまえたタクシーに叩き込んだ。 「伊原さんっていつもあんな風に酔っ払うの?」  北野の問いに首を振る。 「多分、君がいたから色々張り切っちゃったんだよ」 「色々とは」 「仕事の話を熱く語った。そんなに強くないのに酒をいっぱい飲んだ。それにさ、君が気を遣ってちょっとだけ仕事の話をしたじゃない。伊原さんはどんな業務を担当しているんですかって。あいつ、如何にもバリバリこなしていますって感じに話していたけどね。本当は大抵いっぱいいっぱいなのよ。仕事が無ければ定時には帰るけど、少し忙しくなると毎回パニックを起こすの。そんでミスが激増して、余計な残業が一気に増える。周りの人も、ミスが無いかチェックしなきゃいけなくなるから部署全体が疲れ果てる。あいつが一生懸命なのは皆わかっているから、誰も責めないけどね。本人も気にはしているんだ。だけどそんなことは一切言わなかったでしょ。格好つけたかったのよ、君の前で。去年は新人を取らなかったから、君は俺達にとって初めての後輩なの。ね、暑苦しいけど素直な奴なんだよ」  そっか、と呟き北野がグラスを傾けた。少し空気がかたいな。酒を飲むのにそぐわない。ところでさ、と明るい声を発した。 「道の真ん中で寝転んだ伊原って小説のネタになったりしないの。あんな典型的な酔っ払い、面白いと思うけど」  北野の目に光が灯る。本当に大した情熱だよ。叶うかどうかもわからない夢のためにそこまで身を捧げる様は、俺には眩しすぎる。 「典型的すぎて使えない。社長になる、なんて台詞も陳腐だし」 「陳腐とか言うなよ。可哀想だろ」 「今日のやり取りをもし小説にするのなら、目立たせるのは田中君の方だよ」  酒を飲もうと持ったグラス。口に運ぶ途中でぴたりと止まる。目立たせるのは田中君。今、北野はそう言った。 「え、何で」  当然の疑問だ。俺より伊原の方がよっぽど面白いだろう。 「私が書くなら、だけどね」  おのれ、気になる物言いをしおって。酒を一気に飲み干す。カウンター内の店員さんにおかわりを頼み、隣の北野へ半身を向けた。 「詳しく説明して。俺は伊原の方が素材として優秀だと思う。仕事にバカみたいな情熱を注いでいるけど能力が足りないポンコツ社員。おまけに新人に仕事とはなんたるかを説いていたら興味無いんでその話はいいですって断られちゃう。ほら、コメディ要員として優秀だろ」 「いや、そんな奴はどこにでもいる。キャラとしては五十五点ってところだね」  低いな。一生懸命生きているのに五十五点と評された同期に心から同情する。 「でもそれなら俺なんてあいつに輪をかけて面白みが無いよ。仕事へのやる気も無い。夢も特に持っていない。適当に働いて家で酒飲みながらスマホを弄って眠くなったら寝る。目立たせようにも今日は俺、伊原を宥めたりからかったりしただけだよ。一体どうするのさ」  北野の唇が三日月型になる。白い歯と赤い舌。食われそうで少し怖い。 「その普通の人が、語っちゃったところを粒だてるのです」  よくわからない。だが背中に悪寒が走った。怖い。聞きたくない。間違いなく今からバカにされる予感があった。咄嗟に制止しようとするも、一瞬間に合わなかった。 「やる気は無い。夢も無い。日々の張り合いすらも無い。そんな人が同期と後輩を前にして、いつも通り緩い調子で飲み会に参加していた。だけど貴方。ちょっとだけ、語りましたよね。仲良くやりましょうってくだり。あれを言い終わった後、俺は反目する同期と後輩を上手いこと纏めあげていい雰囲気で今後過ごせるようやってやりましたよ。そんな内心が思いっきり顔に出ていた。案の定、私と伊原さんに即刻ツッコまれた」  耐え切れなくて北野の酒を奪い飲み干した。しかし弄りは止まらない。 「ここに来てからも伊原さんのことをしっとり語っていましたよね。あの人のポンコツな実像をばらしつつ、一生懸命なところは誰もが認めるところだとフォローして、最後に暑苦しいけど素直な奴、と端的に纏める。その過程で私を、自分達にとっての初めての後輩、とさりげなくキュンと来るようなフレーズで言い表す。そう。貴方は自分なんて普通の人ですと口では言います。平凡で緩くて何の目立つところも無い者です、と。だけど実は言動の端々に、俺はわかっているからね、という理解者面が滲み出てしまう、ちょっと笑いたいけどそれ以上に相手の背中を痒くする無自覚型格好付け男さんなのですっ」  北野のキメと同時に酒が差し出された。店員さんが明らかに笑いを堪えている。カウンター席だから俺達の会話が全部聞こえていたのだろう。当然、さっきの俺の発言も。理解者面なんてしていない、と反論するつもりだったのに、店員さんの表情で北野の主張が全面的に正しいことを悟った。俺、無自覚に格好付けていたのか。大して喋ったことも無かった新人に、俺はお前の言いたいことがわかっているからね、なんて態度を示していたのか。何だろう。何一つ言葉が浮かばない。その時、注文していない北野にも酒が差し出された。俺が奪って飲み干したのと同じ物。ありがとうございます、と北野はすぐに半分空にした。想像以上に店員さんはカウンターの中から俺達を観察していたらしい。物書き志望の新人と言い、よく見ていやがる。 「こんな面白い逸材に出会えたのです。しばらく付き纏わせて貰いますよ」 「敬語はやめろ。完全に弄ってるじゃねぇか」 「何でしたっけ。後輩に手を差し伸べるのが先輩、でしたっけ? やっぱりちょくちょく格好つけているんだよなぁ」 「うるせぇなぁ」 「だから先輩。私が小説家への道を切り拓くために、鎌となって下さい」  おかわりの酒を空にする。誰が鎌だ。まったく。 「わかったよ」 「それじゃあこれからの我々の関係が良好であることを祈り、乾杯」  勝手に杯を当てられる。しかしどうしても一言言っておかなければ気が済まない。北野、と声を押し殺して呼び掛ける。 「どうせその道を進むなら踏破してみせろよ。俺という鎌を持ったからには決して挫折は許さん」  その言葉に後輩は爆笑した。お任せ下さい、とおしぼりで目元を拭いつつ親指を立てる。 「貴方が格好つける限り、私の歩みは止まりません。今も素材をありがとうございます」  顔が赤くなる。また格好をつけちゃった。いやぁ楽しいですね、と北野がはしゃぐ。夜はまだまだ長そうだ。やれやれ。
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