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目の前をかすめていくのは、ねこじゃらしだった。
少女と歩きはじめて、かれこれもうすぐ四十分にもなろうという頃合いである――空は染色を間違えたかのように、抜けるような青色だった。
横切るような飛行機雲の白線が、まるで空をふたつに分けようとしているかのように心細い。地平線の向こうから伸びてくる入道雲は、深緑の大地に厚い影を落としていた。
僕はシャツの襟口をぱたぱたとやりながら、少女の隣をまっすぐに歩く。記憶にある通りなら、ここからさらに南に行ったところに、千歳医院はあるはずだ。
どこで摘んできたのかは分からないけれど、いつのまにかねこじゃらしを手に入れた少女は、どこかご満悦といった表情で手を目いっぱい挙げ、ねこじゃらしを振り回し続けている。毛のある先端が頬をかすめてくすぐったい。
そういえば、と私は不意に思い立って少女のほうを向く。
「きみのお母さんは、どうして入院しているんですか? 日射病?」
僕の質問に、少女はぴたりとねこじゃらしを振り回すのをやめる。それから数秒ほど考えて、
「骨折です」
と答えた。
「私の家は屋根裏部屋になっているのですが、そこに道具を直す際にバランスを崩して、落っこちてしまったのです。それで母は、骨折しました。」
頭蓋骨を。
何かの鳥が頭上で驚いたように高く鳴いた。
少女の答えに僕は、一瞬だけ反応が遅れてしまう。
頭蓋骨の骨折だって?
「じゃ、じゃあきみのお母さんは――」
「安心してください。ちょっとヒビが入っただけで、問題はないとお医者様から聞いていますから」
少女はあくまで冷静に告げた。
なるほど、それでは、骨折で入院、というより脳震盪の部類のほうが正しいだろう。幼いながらに、頭蓋骨の骨折、という仰々しい字面に参ってしまって、その言葉ばかりを覚えて帰ったのだ、と僕は暗に悟った。
「お母さん、はやく良くなるといいね」
と僕が言うと、
「母は元気な人なので、扉を破ってでも出てきますよ」
と少女は返した。僕はその返答がおもしろくって、思わず吹き出してしまう――と、そのときだった。
がつん、と何かが、僕の身体にぶつかったのだ。
僕は思わず尻餅をついて、鼻の頭を抑えて呻いた。頭上から
「大丈夫ですか?」
と少女の声が振ってくる。少女の小さな身体がつくる影が、僕の視界を少しだけ暗くした。僕は顔を抑えたまま、その場に立ち上がる。電信柱か何かにぶつかったような衝撃だった。
「いたた……」
え。
僕は言葉を失った。
なぜならば、そこには何も――壁も、電信柱もなかったからである。
なにも無い。
けれど。
僕は手を伸ばしてみる。
すると――触れる。そこには何かがある。
見えないが、触れる。触れている――そこには何か、僕たちと道とを隔てている、透明の何ものかがあった。
「どうしたんです?」
と少女は僕を見上げた。
「おかしいんだ……」
僕はそれを、ぺたぺたと触りながら確かめてみる。ざらざらとしていて、荒っぽい手触りだ。ところどころに、へこんでいるような感覚を受ける。どうやら、横に線を引くように、そこには溝のようなものが彫ってあるようだった。温度は冷たく、鉄に触れているようである。
「これは、いったい……」
「お兄さん」
少女が僕のシャツの裾を引っ張った。
「もう、そっちじゃないですよ」
少女は言って、靴と靴下とを脱ぐと、ずぷっ、と田のなかに飛び込んだ。
「うあ、ええっ」
「いいから、こっち。」
少女は照れくさそうにワンピースのすそを持ち上げていた。彼女の素足のそばを川魚が旋回していく。薄緑の苗は陽光に透かされてなおその薄さを際立たせ、湧き上がった泥の水面に小さく映っている。
「こっちって――」
「いーから。こっちですっ!」
少女は唇を尖らせて、僕のすそをもう一度引っ張った。僕はバランスを崩しそうになりながら、慌てて靴下と靴を脱ぎ、ズボンのすそをまくった。
田の水はひんやりとしていて、凍るようにとても冷たかった。けれど僕にとっては、久しぶりに感じる、泥に足のつく感覚がくすぐったくって、思わず目を閉じた。
「お兄さんは、どうしてここにやってきたんですか?」
と、少女は僕のほうを振り返りながら尋ねる。
僕は少しだけ考えた。先輩のことを、彼女にそのまま伝えても大丈夫だろうか? 何を言っているんだこいつは、奇妙な人間に道案内を頼んでしまったと、怪訝な顔をされないだろうか。
僕はしばらく考えて、祖母の家に帰省にやってきたのだ、と彼女に伝えた。間違ったことはひとつも言っていない。幼少期から、僕はよくこの地を訪れていたし、さすがに田に入り込んだことはないけれど、千歳医院までの道のりだって、もう何度通ったか分からないほどだ。
「へえ、おばあさんが。」
と、少女は呟く。
「それはひょっとして、笹村のところの?」
「……これは驚いた、きみ、よく知っているね」
笹村とは、母の旧姓だった。
驚く僕に、少女は「ふふっ」と少しだけ微笑して、
「だって、雰囲気が似ていますから」
と言った。
「雰囲気、ねえ……ところで、本当にこっちで会ってるのっ?」
僕は冷たい水に気を取られながら、それでも僕を引っ張って先を歩く少女に尋ねる。確かに、少女の通っているところにだけなぜか、苗が植えられていなかった。
「あってます!」
けれど少女の声はなぜかはっきりとしていて、僕たちを取り囲んでいるどの音よりも鮮明に、僕の耳に入ってきた。
まるでそれ以外の音の伝達が、彼女の声によって阻まれているみたいに。
静寂だ。
反対側の道にまで上がってきて、ようやく僕たちは田地を超えた。けれどこの濡れた足のまま靴を履きたくはないので、しばらくは裸足でいることにした――久々の砂利道に腰を下ろし、溜息をつくと、そこに良い匂いが香ってきた。
「お兄さん」
と少女が僕を見下ろす。
「お腹が減りませんか?」
聴けばそこに、団小屋があるらしかった。
少女の要望通り、みたらし団子を二串購入する。歩きながら、並んで食べた。懐かしい味だ。しばらく、みたらし団子なんて食べていなかった。
「あの店の主人の顔、見ましたか?」
と、少女が僕に訊いた。
僕は三秒ほど、そのときの光景を思い返してみる――タレの香りと餅の匂い。奥まった座敷と、そこに座っている、おそらくは客であろうタンクトップの男性。団扇。串のからからという音と、店の主人の巻いているハチマキ。風鈴の音色。
「あれ……そういえば、誰の顔も見えなかったな」
店内には一切、明かりがついていなかったのだ。
だからかもしれない。
誰の顔も、よく見えなかった。
「そうですか」
と。
少女は短く返した。最後のひとつを口で挟み、ぐいっと串を横に引き抜く。
「それはよいことです」
「よいこと?」
「人の顔なんて、見てもしょうがないでしょう」
そうだろうか。
見ても――意味がないものだろうか。
「ありませんよ」
少女は見透かしたように言う。
あっけらかんと。
「無意味です」
断言する。
「ところで兄さん」
少女はくすっと笑って、目の前を示す。
「ここはどっちでしたっけ?」
そこはT字路だった。僕は慌てて、記憶の奥底を巡る――と。
『兄さん』
言葉が、
『こちらに行きましょう』
記憶が、
『兄さん』
過去が、
『あはは』
沈んでいたものが、
『兄さん……?』
浮かび上がって、
『いたい』
あがって、
『いたいです』
くる。
『手を』
『はなしてください』
くる。
「こちらのほうが近道ですよ」
来る。
「兄さん?」
「あ、ああ……こっちだよ、サキ。」
私は左を指さした。
竹林を分かつように続いている道だ。
左右は崖のようになっている。
滑落すれば、死ぬことはなくても骨くらいは折れてしまいそうだった。
かつて私もよく通っていた道――そうだ。ここを抜ければ千歳医院につくはず。
私とサキは手をつないでその道を渡る。
斜光。
縦線に遮られた光の跡。
蝉。
「兄さん」
と、サキは言う。
「前もここを通りましたね」
斜めに跳ね返る光の線が足跡を白に塗りつぶす。
「兄さんはあのとき、まだ十六歳でしたね」
サキがその白い顔で僕を見上げる。
「覚えていますか?」
つないだ手はとても小さい。
「あなたのやったこと。」
サキはそのまま、白い上着をめくりあげて見せた。
赤。
瞬間、まるでかさぶたをはいだみたいに――赤が。
じわり、
じわり、
と、白を侵していく。
血だ。
サキは苦しそうに傷口を押さえた。
「すごく、すっごく、いたい、ですよ。」
私は返す。
「そうだね。」
治さないと。
小さな口が繰り返す呼吸が、段々と荒くなっていく。
僕はサキと手をつないだまま千歳医院へと進む。
もうすぐだ。
すぐ楽になる。
竹林を抜ければ、すぐに――。
「坂田くん」
その瞬間だった。
声が、世界に入りこむかのように。
僕の耳に――するりと、入ってくる。
耐え切れずに振り向いた。
辺りを見渡す――けれど、そこには何もない。
それなのに、声はする。
「こんなところで何をしているんだい?」
今度は、耳元。
温度のある呼気がすぐ右にある。途端、手が何かに触れて――その瞬間、強い力で引き寄せられた。体重の中心を失った僕の身体はバランスを崩し、そのまま竹林のほう――崖のほうへ、落ちてしまう。
と。
そう――思った。
思い込んでいた。
あまりの出来事に、目を閉じ、身体をこわばらせ、息を呑んだ僕は、けれど奈落の底に落ちて全身を複雑に骨折することもなく、というか打ち身にすらならずに、その竹林の崖部分を――浮遊していた。
「な――⁉」
「突然、素っ頓狂な声をあげるものじゃないよ、坂田くん」
僕の肩を支えているほうを見れば、けれどそこにいたのは――知っている顔、讃井先輩だった。
「なかなかやってこないと思っていたら、こんなところで、こんなものに遭っていたのか――まったく、つくづく君の憑依体質には驚くよ。もっともそれ以上に、飽き飽きといった感情のほうが強いがね」
「こんなものって――」
「地縛霊だよ。もっとも、この場合――自縄自縛の、自縛霊とでも言うべきかな」
そう言って讃井先輩は、さきほどまでの竹林の道に取り残されているサキのほうを見る。サキ――サキ?
そういえば。
僕はいったい、どのタイミングで彼女の名前をサキだと判別したんだろう――会話のなかでは、そんなやり取りはなかったはずだ。
というか。
「何をしているのですか、兄さん」
と、サキちゃんは僕のほうをまっすぐに見て言う。
「こっちに戻ってきてくださいよ――そんなところに、立っていないで」
兄さん。
讃井先輩は対して、言葉をつなぐ。
「この子は君のお兄さんじゃないよ。そう仕立てたくっても――それはダメだ。こいつは私が先約しているからね」
「先約?」
「そういう決まりだろう? 依り代は重ねられない。だから君も、あきらめて行くべきだ――君のお兄さんの代替品なんてものは、存在しないんだよ」
いない。
依り代?
代替品。
対する少女は声を震わせながら、僕のほうを見た。
「兄さん。」
こっちに来てください。
「私と行きましょう」
その小さな手が僕のほうに伸びる。
傷。
血は止まっていない――白の衣服が汚れていく。
かちかち、と震えて歯のぶつかる音がする。
「はやく」
柔らかな頬を一筋の涙が流れる。
「こっちに」
「僕は――」
唐突に、夏の記憶が蘇った。
田。
みたらし団子。
麦わら帽子。
蝉しぐれ。
竹林。
色彩。
ゆるやかな風。
ねこじゃらし。
白のワンピース。
「――ごめんね。僕は君のお兄さんじゃないんだ」
少女の目が大きく見開いた。
瞬間。
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