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「すみません、道を尋ねたいのですが」
刻々と朱に色づいてきた空の端が、段々とこちらに迫ってくるのがわかるほどに、それはあからさまな夏の夕暮れだった。
遠くに鳴る川のせせらぎと、近くの山から聞こえる蝉しぐれとのあいだに、その声は入り込むようにして、なぜかひと際目立って聞こえた。
僕は顔に引っ掛けていた文庫の本を取り上げて、その声の主を見上げる。
どうやら僕は、川べりで本を読んでいる最中につい、夏の川辺の心地よさと、蝉とせせらぎとの緩慢としたリズムによって、眠ってしまっていたようだった。
その声の主は、まだ年端もいかぬ少女であった――白のワンピースにサンダル。ぱっつんと切りそろえた前髪と、大きな瞳。荒れていない肌。傍らに麦藁帽子を抱えるその姿は、微睡から足を掬い上げたばかりの目には、どこか朧気なように映った。
僕は上体を起こした。
「道……ですか」
「はい」
道。
少女はうなずいて、
「千歳医院のところに行きたいのです」
と言う。
千歳医院。
そんな病院がこの近くにあっただろうか、としばらく逡巡して、は、と思い出した。一度、目をしたたかに打ち付けたときに、その医院にかかったことがある。その場所ならば知っている。
僕は衣服についた草葉を払いながら立ち上がると、
「ですが、もう夕暮れですよ。……こんな時刻に、どうして医院に?」
と訊いた。
「はい」
と少女は答える。
「母がそこに入院しているのです。なので、私はそこに、見舞いにいこうかと思い立ったのです」
そう言って少女は、抱えている麦わら帽子の中身をこちらに見せた。そこには鮮やかな赤のトマトや、美しく実りのいいトウモロコシが乗っている。きっと、彼女の家で採れたものだろう。
僕は腕にしている時計を確認した。
時刻は午後五時。田舎のここいらではもうすぐ暗闇に包まれてしまうだろうが、だからこそ、少女をこんなところにひとりにしておくわけにはいかないだろう。
僕はスマートフォンを取り出して、讃井先輩に一言、少し帰宅が遅れる旨のメッセージを送り、そして改めて少女に向きなおった。
「では僕が連れていってあげましょう」
「おおー!」
少女は無表情のままに両手をあげた。
夏風に運ばれて、青草の香りがした。
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