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「今日は衣替えをいたしましょう」
お母さまが押し入れから朱塗りのつづらを引き出しておられます。
「お母様、お変わりありませんか?」
突然、外から声がかかりました。
縁側へと出てゆかれるお母様に従って、私も庭を覗き込みます。
薄桃色のワンピースを着たお姉様が木戸から顔をのぞかせた途端、ふぅわりと風が花の香を運んできました。
「ええ、ありがとう。あなたは相変わらずお忙しそうね」
零れ桜からハラハラと舞い落ちる花弁を掌に乗せ、お母様は微笑まれました。
「冬将軍様の北風は勢いが強くて……私の春風では追いかけるのも大変なんです」
そう言うとお姉様は、タンポポの綿毛を巻き上げて去ってゆかれました。
「お母様、元気にお過ごしですか?」
今度はよく日に焼けたお兄様が、生け垣越しに太陽のような眩しい笑顔を覗かせました。
「ええ、ありがとう。あなたは相変わらず騒々しいわね」
お兄様の引き連れてきた蝉しぐれの声に負けぬよう、お母様はいつもより大きな声をお出しになっています。
「元気溌剌って言って欲しいなぁ。タフじゃないとジャジャ馬な春乙女は追いかけられませんからね!」
そう言ってお兄様は激しい雷雨を置き土産に、庭を駆け抜けていったのです。
「ごきげんよう、お母様」
涼やかな声とともに、お兄様の残した熱を鎮めるような澄んだ空気が庭に流れ込んできました。
「ええ、ありがとう。あなたも相変わらず大変そうね」
お母様は少しホッとしたような表情で庭先に現れた上品な御婦人に語りかけました。
「近年、夏の青年の勢いは増すばかり。鎮火しながら後を追うこちらの身にもなって欲しいものですわ」
鈴虫の声と小さなため息を響かせながら、御婦人は去ってゆかれました。
「やぁお母様、息災かね?」
冷たい北風が吹き付け、コントラバスの弦を震わすようなお声が馬上から降ってきます。
「ええ、ありがとう。冬将軍もお変わりなく。けれど秋の貴婦人はお疲れのご様子でしたわ」
お母様は心配そうに頬に手を当てておられます。
「このままでは秋の貴婦人に追いついてしまうと、わしも案じておるところじゃ」
将軍様はそう言ってハラハラと降りしきる粉雪の中へとゆっくり馬を進め、やがて見えなくなりました。
「やれやれ。現し世の巡りは忙しないこと……」
お母様はそう仰ると、くるりと向きを変えて部屋に戻っていらっしゃいました。
そうして私が朱塗りのつづらから取り出した薄衣を、衣紋にかけて陰干しなさったのです。
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