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手紙の受け取り主が会ったことのある彼女であるはずがないのだ。
では、誰に?
白髪の男は、視線を便箋に戻し、万年筆をゆっくりと動かす。
「さっき言ったように彼女とは一夜を共にしてから一度も会っていない。時たま客引きをしている彼女を遠目から見かけることはあったけどそれだけだ。あの雨の日に感じた欲情が湧き起こることもなく、もう一度抱きたい、話したいとも思わなかった。ただただ、町の中の一つの風景として彼女を見ていた」
男は、苦しげに小さく息を吐く。
「そんなことが一年も続き、僕は大学を卒業し、この町の企業に就職し、地元の小さな町を離れた。彼女とはそれきり。会いたいだなんて今も思わない」
「それじゃあ……一体……?」
手紙を送りたい相手って……?
「この町で働いてから八年が過ぎた頃、一つの事件が僕の耳に入った。彼女が事件を起こして逮捕されたこと。そして……彼女に子どもがいたと言うことが」
「子ども?」
切長の右目が大きく見開く。
白髪の男の呼吸が荒くなり、万年筆を持つ手が大きく震える。
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