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池脇颯天との出会い
こんなにも君を好きになるなんて思わなかった。
俺たちはただの同僚で、つい先日まで話したこともなかったのに、あの日から俺の中は君でいっぱいなんだ。
大学時代から付き合っていた彼女に、会社帰りにこっぴどく振られた。
六年も一緒にいて、本当に大切にしたいと思えた人だったから、いつかは結婚したい――そう思っていた矢先の出来事で、正直俺はヤケになっていた。
会社全体の親睦会という名の席で次々にグラスを空っぽにしていく。
はじめは楽しそうに『飲め飲め』と煽っていた奴らも、さすがに俺の様子がおかしいと思ったのか、気づいたら周りから人がいなくなっていた。
どれだけ酒に強いといっても人には限界があって、俺は慌てて会場を出るとトイレへと駆け込んだ。
個室に入りトイレに顔を伏せていると、『飲み過ぎなんじゃない?』って声が聞こえてくる。
ゆっくり顔を上げると、そこには開いたままのドアの淵に左半分を凭れさせて腕組みをしている男がこっちを見て立っていた。
「何だよ、お前には関係ないだろ?」
「ああ、関係ないよ。でも、放っておけない」
そう言うと、便座を握りしめている俺の手をとって丁寧に石鹸で洗うと、持っていたタオルで拭き、その手を再び握ると外の世界へと飛び出した。
引かれるままそいつの背中を見つめていると、すぐ側にある敷地内の噴水の淵に座らされる。
夜風が頬を掠め、髪を揺らす。
気持ちいい……――
目を閉じて息を吸い込むと、ふわふわしていた頭が少しだけスッとしたように感じた。
俺を一人残したまま姿が見えなくなってしまった男の姿を探すけれど見つからない。
仕方なく俺はあと少し酔いを冷まそうと、もう一度目を閉じて顎を反らし、空を見上げた。
ビルの隙間だからなのか涼しい風がふわっと何度も吹きつけてくる。
「はい」
「うわっ、冷たっ!」
突然頬に押し当てられたひんやりとした感覚に、慌てて顔を元に戻すと、目の前にはペットボトルを持った男が立っていて、意地悪少年みたいに笑っている。
「水だけど、飲んだらマシになるかと思って」
「あっ、うん。ありがとう」
差し出されたペットボトルを受け取り、蓋を開けて口に含む。
その隣に、ジンジャエールを持ったそいつがそっと腰を下ろした。
「何か嫌なことでもあった?」
「どうして?」
「忘れたいことがあるから、あんな風に飲んだのかなって思って」
「別に……。あんたには関係ないってさっきも言ったろ?」
「まあね。でもやっぱ気になるし」
「何でだよ。それに俺、あんたのこと知らないし」
「それって酷くない? これでも一応、僕たち同僚なんだけど……」
「えっ!? マジ!?」
「まあ、部署が違うから話す機会なんてなかったけど、新人紹介の時は一緒に前に出て挨拶はしたよ」
「あっ、の……ごめん……」
「僕は、あんたの名前もちゃんと覚えているのにな……」
「な、んで……」
「知りたい?」
意味ありげに聞かれたから、何となく恥ずかしくなって顔を逸らす俺を見て、そいつはくすっと笑うと、『今はまだ教えない』ってすっと立ち上がった。
「どこ行くの?」
「さすがに戻れないでしょ? 送ってく」
「けど……」
「いいから……」
ちょっと強引に腕を引かれると、そのまま前を通りかかったタクシーを停めて乗り込んだ。
自分のマンションのある住所を運転手に告げると、静かに車が発進する。
肩が触れるくらいの距離感と、まだ握られたままの腕のせいか、胸がドキドキしていた。
ゆっくりとタクシーがマンションの前に停車する。
自動ドアが開き、腕をトントンと押されるから、急いで車の外へ出ると、そいつは車の中に残ったまま。
「じゃあ、また月曜日に」
「えっ、あっ、帰るの?」
「そうやっていつも女を誘うの?」
「なに言って……」
「冗談……。今日はゆっくり休んで。またね」
そう言って、タクシーのドアが閉まると、俺を残したままそいつはいなくなった。
別にあいつが恋しかったわけじゃない。
ただ、一人でいたくなかった。
「何だよ、かっこつけちゃって……」
見えなくなったタクシーに向かって小さく呟くと、俺は自分の部屋へと帰った。
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