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おすすめのごはん屋さん
土日はどこにも出掛けることなく家で過ごしていたこともあり、すっかりと体調が戻った俺は、いつものように出勤している。
階段を上がって長いろうかへ差し掛かると、目の前にはあいつが他の社員と笑顔で話している姿が飛び込んできた。
きっと、あんなことがなかったら気にもならない光景だったはずなのに――。俺はなぜかあいつを目で追っている。
――ドンッ――
「おはよ、今井!」
背後から腕を当てられて通りすぎた同僚の奴が振り返って挨拶をしてくるから、ぶつかった腕をさすりながら『おはよ』と返事をする。
「だいぶ酔ってたみたいだけど、大丈夫だった?」
「ああ、何とかね」
「そっか、なら良かった。いきなりいなくなったから心配してたんだ」
「ああ、悪かった」
「いや、でも飲み過ぎには注意しろよ」
「そうだな。気をつける」
「よし、じゃあ今日も頑張ろう」
俺の腕をまたポンポンと軽く叩くと、同僚はささっとオフィスの中へ入って行き、大きな声で挨拶をしている。
その様子を後ろから見つつ、ふと視線を変えた瞬間に、どくんと心臓が高鳴った。
――ぶつかる視線……――
間違いなんかじゃない――あいつも俺を見ていた?
「池脇颯天! 行くぞ」
「あっ、うん」
名前を呼ばれたそいつは、すっと体を回転させると、名前を呼んだ奴とオフィスへ消えた。
――池脇颯天――
それがあいつの名前。
それからも、何度か同じような場面に出くわした。
時間や場所は違っても、俺の視線の先には常にあいつがいる。
目が合ったからといって、特に話すこともなく、時間だけが過ぎていくだけ――。
そんなある日、朝の天気予報では雨が降るなんて言ってなかったのに、残業を済ませて帰ろうとしたら外は大雨で、しばらく雨宿りのためにぼーっと立っていたら、『お疲れさま』と後ろから声を掛けられた。
振り返ると、大きな黒い傘を手に持った池脇颯天がすぐ後ろに立っていた。
「あっ、お疲れ」
「傘、ないの?」
「今日、雨だって知らなかったから」
「夜から降るって言ってたよ」
「そ、なんだ……」
「すぐそこに、美味しいごはん屋さんがあるんだけど、一緒に行かない?」
「えっ……?」
「嫌ならいいけど……」
「ううん、行く……」
「じゃあ、どうぞ」
傘を開いて左手で持ち、俺の入れるスペースを空けながら、そいつが言った。
ゆっくりと足を進め、右側のスペースに入り込むと、目的地に向かって歩き出す。
いくら大きい傘だといっても、大人の男二人が入るとやっぱり小さくて、お互いの外側の肩は濡れてしまっている。
それでも嫌だと感じないのは、隣にいるのが池脇颯天だから……――?
会社から少し離れた路地裏に入ると、ある店の前で足を止め、俺の体を自分よりも奥へ押し込むと、傘をたたんでいる。
傘立てに傘を差し込んで、すっと俺の横にあるドアに手をかけると、慣れた手つきでそれをスライドさせた。
「いらっしゃい」
「こんばんは。おばちゃん、いつものを二人前」
「あらっ、今日は一人じゃないの?」
「うん、会社の同僚と一緒なんだ」
「そうかい。すぐ用意するから、好きなところに座って待ってて」
「はーい」
すごく仲良さそうに会話をしている二人の様子を後ろから傍観していると、ふいにそいつが入り口を広げるように体をズラして、振り返ってくる。
「どうぞ」
「あっ、どうも……」
「どこでもいいよね?」
「うん」
俺に確認するように尋ねてくると、前を歩いて席へと進む。
「奥へどうぞ」
「ああ、ありがと」
一番奥の席へつくと、奥側に座るように言われ、そのままテーブルを横切ってイスに座った。
その前に池脇颯天が腰を下ろし、テーブルに左ひじを立てて頬杖をつくと、視線がぶつかる。
真っ直ぐに捕らえられた瞳は、なかなか俺を離してはくれなくて、全身が凍ったように動けない。
「ここのおでんはオススメなんだ。すごく美味しいよ」
ふっと表情が和らいで話し出したと思ったら、すぐ側にある割り箸を二本手に取り、一本を差し出される。
そっとそれを受け取り、お皿に乗っけようとしたところに、
「はい、お待ちどうさま。熱いから火傷しないようにね」
「わかってるよ。ありがとう」
「颯天君はわかってても、こっちのお兄ちゃんは知らないから言ってるんじゃないか」
「あっ、そういうことか……」
「そうだよ。まあ、ゆっくりして行きな。おかわりもしてくれていいからね」
「ありがとうございます。いただきます」
俺に向かってニッコリ笑ったおばさんに頭を下げてお礼を言うと、親指を立てて見せて仕事へと戻って行った。
「いただきます」
両手を合わせてきちんといただきますと言う姿が何となく俺をどきっとさせる。
何でだろう――?
そういえば最近、周りにはそんな奴がいなかったからかもしれない。
そして、そういう奴とつるんでいる俺自身も、いつの間にかしなくなっていたんだ。
当たり前にしていたことをしなくなっていた自分に気づかされて、俺は恥ずかしくなった。
「いただきます」
そいつのしぐさを真似るように、両手を合わせて言葉にすると、目の前のそいつが、優しく微笑んだのが見えた気がした。
初めて二人で食べた食事は、昔を思い出させてくれるような、とても懐かしい味がして、その夜久しぶりにお母さんへと電話をかけた。
お母さんは、電話の向こうで嬉しそうに話をしていて、たまにはこうして連絡を取るのも悪くないと思えた。
店を出た頃にはすっかり雨も止んでいて、隣に並んで歩きながらも会話をすることも特になくて、ただ駅までの道を歩いていく。
それだけの時間がもっともっと続けばいいのに……――。
そう思っていたのは、きっと俺だけ――。
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